2013年05月


横浜カトリック戸塚教会の「まけないぞう さん」 (3月・4月に南三陸町へボランティアに行ったときの写真もご紹介します)Makenaizo are enjoying early summer light in Totsuka Church, Kanagawa.

2013年5月20日 月曜日

976715_592681917416294_917923103_oMakenaizo are enjoying early summer light in Totsuka Church, Kanagawa.

【横浜のまけないぞうサポーター 佐野純三さんからのお便りです】
「横浜カトリック戸塚教会の「まけないぞう さん」たちです☆
爽やかな緑の木陰から、たくさんのぞうさんの引っ越し先が見つかりました。

4月7日にはじめて被災地の話しそこで20頭、また先月と今日の福島産品販売会と合わせ100頭、合計で120頭の引っ越し先が見つかりました。
次は秋に試みるつもりです。
またよろしくお願いします。」

佐野さん、戸塚教会の皆様 応援ありがとうございます☆
まけないぞう〜♬

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「仮設住宅訪問、お茶っこなどを手伝ってると、行政では埋めきれない部分があり、復興住宅のあり方、氏神様を中心とした集落の維持等も含め、ボランティアが手伝う分野は大きく重いと考えています。
3月、4月にボランテイアへ行ったときの写真です。」 (続きを読む... more...)


まけないぞうがDr青木とウクライナへ行きました!! Makenaizô went to Ukraine

【makenaizone主宰の青木正美より まけないぞうのお便りです】

2013年5月12日〜 ウクライナに行きました。
いつも東京にいてペインクリニックで診療をしながら、活動していますが・・・
2013年5月 はるばるウクライナまで出かけました。

まけないぞうもいっしょです!!21348_533094986752201_1239276443_n

写真はコロステン市長と。

モバイルを駆使して毎日Dr.青木日記で報告も続けました。

青葉風キエフも曇り13℃

綿毛とぶキエフの風に吹かれけり

ツバメゆくキエフの屋根のあるところ

橡の花散る坂のまちキエフかな

詳しくは、Dr青木日記  ウクライナの旅の日記シリーズをご覧ください。
5月12日 (日)ヨーロッパは日本より6時間遅い。日曜日の午後にキエフ空港に到着した。

5月13日(月) チェルノブイリ原発から3キロのプリピァチという町から原発事故直後にキエフに避難した人たちで作っている「ゼムリャキ」というNPOの方々のお話を伺った。

5月14日(火)  コロステン一日目

5月15日(水)  コロステン自由市場

5月16日(木) ウクライナ最後の行程は、チェルイブイリ原発へ。

 


5月26日 All Sophian’s Festival(ASF=上智創立100周年)で“まけないぞうショップ”が開店します

 

5月26日(日)All Sophian’s Festival(ASF=上智創立100周年)で“まけないぞうショップ”が開店します。場所は四谷キャンパスのメインストリートです。お時間のある方、購入希望の方は、ぜひいらしてください。

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2013.5.20

ウクライナの旅の日記 5月13日(月)

チェルノブイリ原発から3キロのところに、プリピァチという町があった。
原発事故直後に、この町からキエフに避難した人たちで作っている「ゼムリャキ」というNPOの方々のお話を伺った。
恐ろしく良くできる日本人の通訳も入れてだが、私たち一行16人と「ゼムリャキ」の方々7~8人との会談は3時間を超えたものとなった。
わたしが一番お聞きしたかったのは、医療のことについてだ。特に直後の医療体制がどうだったのかをどうしてもお聞きしたかった。

午後から行った「チェルノブイリ博物館」でプリピァチの町のデータを知り、わたしは立ち尽くしたのだった。
人口が50000人、うち子どもが17000人。年間1000人の新生児が誕生していた。つまり月に80以上のお産があった町だった。プリピァチ市の平均年齢は26歳。

そうしてプリピァチ市の被災前のビデオを見ると、いわゆる高級なホワイトカラーの家庭の人々の暮らしが映っていた。
1986年あたりでは、世界でも裕福な暮らしぶりだったにちがいない。恐らく東ヨーロッパではピカイチの生活水準だったことだろう。
プリピァチ市は、チェルノブイリ原発で働く人々が居を構えていた、若さと希望に満ち溢れた新興都市だった。
それが1986年の4月26日の事故で一転する。翌27日の日中に、たった1時間で荷物をまとめるようにとの指示があって、用意された1200台のバスと、1500座席の列車3台に積み込まれて避難の旅立ちをしたのだった。
一行のバスの列は3kmにも及んだという。3日で帰れるからと言われてプリピァチの人々は町をあとにした。

そうしてプリピャチからキエフに避難した人々はNPOを作り、互いに生活を支え合うようになる。やがて日本やヨーロッパなどの支援団体とのパイプを持つようになった。今でも日本の支援団体と深く結びついている。
あの事故から四半世紀が過ぎた頃に、福島原発の事故が起こった。時を経て、原発事故が日本で起こったのだ。だからこそ、私たちの立ち入ったロングインタビューにも快く丁寧に応じてくださったのだろう。

「プリピャチからウクライナに避難した者は赤ちゃんから大人まで全て、被災後2ヶ月間のうちに健康調査を終えました。幾つかの血液検査などですが、今でも年に一回は血液検査などの検診を受けています」

「原発に因る健康被害は、子や孫といった後の世代に引き継がれます。子ども達はみな免疫能が弱いのです。事故から27年経って、そのことに私たちは直面しています。日本の方々へぜひとも伝えたい事は、次世代の健康管理をしっかりと行うことが必要です。これはチェルノブイリ法に盛り込めなかったことなのですが……」

「私たちは日本のみなさまに大変お世話になってきました。今度はお返しをする番です。ウクライナ政府が日本を助けると打ち出したなら、私たちは喜んで日本の子どもたちを受け入れます。どうぞいらして下さい」

私たち一行は、何人かの方々とハグをして別れた。暖かく、励ましてくれるようなハグだった。

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スウェーデンの南に「まけないぞう」が上陸です♪ Makenaizo Elephants has now reached Sweden!

【オーストリアのまけないぞうサポーター makenaizoneのバーナード・モリスのお便りです】

先日スウェーデンへ出張の際に、「まけないぞう」10頭を取引先の会社の方々に紹介しました。
カタログショッピングの会社 ELLOSの皆さんgoteborg
「まけないぞう」とても喜んで、これから応援します!!とのことです。

まけないぞうの新しい友だちは、スウェーデンの南のほうの、ヨーテボリの近くの ボロースという町で働いている人たちです。

海をはさんで対岸はデンマークです。
(地図をご覧ください)

北欧では以前に ノルウェーのオスロに「まけないぞう」が行っていますが・・・ (オスロのまけないぞうはこちら
スウェーデンにもこれから続々と お引っ越しできそうですよ! 楽しみですね まけないぞう〜☆


***

The elephants march North!
 Makenai-zö has now reached Sweden. The elephants have been introduced to the Scandinavian mail-order company ELLOS in the town of Borås, near to Göteborg and this is the group that starts the elephant-takeover.
The ladies here are part of the import and logistics team at Ellos and these are just the first of many elephants who will be making their new homes with the Vikings!!
Everyone is very happy to do something to help and Makenai-zö is a very good way of achieving this.
Much more to come from Ellos during the next few weeks …

これから、会社のなかで 他のひとたちにも「まけないぞう」を紹介したいので、もっとたくさん送って欲しいということです。「バイキングまけないぞう」の誕生ですね♪
左から リズベットさん、バーバラさん、テレーゼさん、ヴィヴィアンヌさん、マリアさん。

There was some Makenaizô in Oslo, Norway (click here) , but yours are the memorable first Makenaizô Elephants in Sweden!!!
Thank you to our friends in Ellos in Borås!!

Bernie Morris will bring you many, many more Makenaizôs!
On the photo, from left to right:
Ms Lisbet Hallberg Andersson, Ms Barbro Tholin Svensson, Ms Therese Larsdotter, Ms Wiwianne Tänzer and Ms Maria Salonen.ellos2

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2013.5.19

2013年5月19日 日曜日

久しぶりの定点観測

明日からは、暫くウクライナの旅日記をおおくりする予定です。

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2013.5.18

2013年5月18日 土曜日

綿毛とぶキエフの風に吹かれけり
ツバメゆくキエフの屋根のあるところ
橡の花散る坂のまちキエフかな

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「被災者の方たちも、早く、辛く長いトンネルを抜けて欲しいと願います」・・・神戸の方からのお便りです

みなさん、こんにちは。増島智子です。

今日、うれしいメッセージが事務所に送られてきました。
ぜひ、みなさんにも共有して頂きたく、メールします。

いま、ちょうど事務所で、阪神・淡路大震災から丸20年を迎えるときに若者中心にフォーラムみたいなものができたらと検討しています。
この想いに至ったのは、東日本の被災地と向き合って、神戸はどうだったのか?
ちゃんとその経験を被災地へ、また次の世代を担う若者へ継承出来ているのか?
いつも同じ過ちを人は繰り返しているのではないかと、政治を見ていても、差別や偏見などがなくならない世の中をみていても、複雑な想いを感じます。

震災の経験をきちんと検証し、これからの世代につなげることが大切ではないかと。
そんなこと考えているときに、以下のような東日本の「まけないぞう」が神戸の被災地の人に届いて確実に想いが伝わっていると、18年を超えた心のつながりを感じました。
文中にある、5歳と2歳の子どもたちが大人になったときに、ちゃんと震災のことが語り継がれるようにしていきたいと思います。

途中で「まけないぞう」も売れなくなったり、関心が薄れたりする中、やめようかと思った時もありましたが、被災地からの被災地へのメッセージを伝えることが役目だと想い、続けてきました。
そんな中でこんなメッセージは私たちにとってとてもうれしいメッセージです。
ぜひみなさんにも想いを共有して頂きたくて、ご紹介させて頂きます。
本当に、みなさんに支えられていますね。

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神戸に住む主婦です。今回知人から、まけないぞうタオルを頂きました。
すごく可愛くて、まして被災者の方が 作られたと分かり、思わずメールさせて頂きました。
阪神淡路大震災の年に結婚し、5年で不慮の事故で主人を亡くしました。当時4才だった兄は今でも「お父さんが生きてたらなあ」と言い、2才だった妹はお父さんの顔を覚えていません。
突然肉親を亡くす辛さは痛いほど分かります。
被災者の方たちも、早く、辛く長いトンネルを抜けて欲しいと願います。悲しみは一生続くにしても、少しでも軽減できれば…と。
そんな中、まけないぞう作成の企画はすごく意義のある素敵なものだと思います。
大量生産の中国製ではなく、離れた地で頑張ってる方の手によるものだと考えただけで、感極まるものがあります。
デザインも絆のリボンも可愛いです・
早速キッチンで使わせていただきます。
発注メールではなくて申し訳ありません。


2013.5.17

2013年5月17日 金曜日

遠雷やチェルノブイリの消防碑
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2013.5.16

2013年5月16日 木曜日

ウクライナ最後の行程は、チェルイブイリ原発へ。
その3kmの所にあったプリピャチという廃墟の町も含めて見学してきた。

昨日、一昨日のコロステンの印象の方が強く、正直いってチェルノブイリ原発には殆ど感想はない。
こんな馬鹿げた人類の歴史はもうやめよう、と言うぐらいか。
27年経っても、何も終わっていないチェルノブイリ。

このチェルノブイリの悲劇の歴史から何も学ばなかった私たちの国は、安全神話という恥ずかしい絵空事を無責任にも信じ込み、押しつけ、走ってきてしまったのだ。
しかし、もう止めようではないか。この馬鹿馬鹿しい人類の歴史にピリオドを打とうではないか。

それとはまた別次元で、わたしたちの国は、もっとしっかりとした被災者救済をしなくてはならない。
27年前のソビエトにできて、今の日本にできないことが沢山あったことを知ってしまった。

そう。この目で見てきた、聞いてきたことを、これから東京に帰って活かさねばならないと、心は逸る。明け方の便で帰国の予定だ。

写真は4号機展望台から、撮影禁止の4号機がなぜが偶然に写ってしまったなり。
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2013.5.15

2013年5月15日 水曜日

コロステン2日目。

朝一番で市場へ。
その後、第12学校へ。
その後、家庭訪問。

わたしは昨秋に放映されたNHKのチェルノブイリの番組を観て、どうしてもウクライナに行かなくてはと強く思ってきた。
同じ事を、このツアーを企画した日弁連の人たちも感じたのだという。

そんな訳で、感じるところがたいへん多い旅となった。
夕方、キエフに戻ってきた。

明日わたしたちは、チェルノブイリに発つ。
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2013.5.14

2013年5月14日 火曜日

チェルノブイリから西に110kmのコロステン市(人口6万人)に来ている。
この町で、ほんとうに長らく臨床医をしているザイエツ医師にお会いしてお話を伺う事ができた。
あのNHKの衝撃のドキュメンタリーで、警告をされておられたドクターだ。
本当に余りにも大きな収穫があった。
明日もまた、コロステンの市場と小学校と家庭訪問が待っている。

東京に帰りついたら、しっかりまとめようと思う。
こんやは遅くまで全国から集まった日弁連のメンバーたちと部屋のみ会。青木はお茶でディープな話をばおつきあい(°_°)
さて、これから自分にとって初めての毛布なし布団なし&カバーありの、見た事もないおもちゃのようなベッドに寝るとする。
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2013.5.13

2013年5月13日 月曜日

そもそも、わたしがどうしてもチェルノブイリとりわけキエフに行きたいと思ってきたのかというと、チェルノブイリには日本の25年後があるとずっと思い続けてきたからだ。
原発震災のことを考えると、どの方向から歩いていっても、必ずチェルノブイリに辿り着く。そのぐらいあの事故と、あの事故への国の対処は、福島の事故の模範になっている。模範というのもおかしいのけれども。

国は事故を過小評価し、隠蔽したかった。世界に事故のことが知らされたのは、1986年4月29日のキエフの新聞の3面に小さく記事が載った。そうして7時間の時差があっての4月29日のニューヨークタイムズの一面に、放射能雲の流れの地図が載って、全世界にこの事故の知るところとなったのだ。
もちろん27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所の従業員が、自身の外部被爆が放射線管理で引っかかり、この事故に気づくのだが……。


ところで、チェルオブイリ原発から3キロのところに、プリピァチという町があった。今日の朝この町からキエフに避難した人たちが作っているNPOの方々のお話を伺った。恐ろしく良くできる日本人の通訳も入れてだが、私たち一行16人とNPOの方々7〜8人との会談は3時間を超えたものとなった。

わたしが一番聞きたかったのは、医療のことについてだ。特に直後の医療体制がどうだったのかをどうしても聞きたかった。
もしかしたら順番が逆だったのかもしれないが、午後からは「チェルノブイリ博物館」に行った。
ここでプリピァチの町のデータを知り、わたしは立ち尽くしたのだった。

人口が50000人、うち子どもが17000人。年間1000人の新生児が誕生していた。つまり月に80以上のお産があったのだ。町の平均年齢は26歳。
そうしてプリピァチの町のビデオが流れていた。いわゆるホワイトカラーの家庭の人々の暮らし。1986年あたりでは、世界でも裕福な暮らしぶりだった。東ヨーロッパではピカイチの生活水準だったのだろう。
それが一転して、4月27日には1時間で荷物をまとめるようにとの指示があって、1200台のバスと、1500座席の列車3台に積み込まれて避難の旅立ちをしたのだった。

こういう状況の中をたった一時間で荷造りをして、3日で帰れると言われてプリピァチから逃げてきた方々から話を伺ったのだ。

というところで、朝は9時から地下鉄やトンでもなバスでの移動、極めつけは1.5kmで高低差がめっちゃくちゃある(何と言ってもケーブルカーが通っている山なのだ)を上るというおまけまでついて、もうこれ以上は今夜は無理だと思われ……おやすみなさい!
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2013.5.12@キエフ

2013年5月12日 日曜日

ヨーロッパは日本より6時間遅い。でもって、日曜日の午後にキエフ空港に到着した。

早速に大トラブル発生。日本から頼んでいたたぶん白タクのおじさんが連れて行ってくれたホテルは「Radisson Blu Poclil」。で、チェックインしようとしたら予約に名前がない!フロントの女性が、「ホテルの住所はどこ?」と厳しい顔で聞いてくる。日本から持ってきたメールのコピーを見るも住所は書いてない。仕方なく「I don’t know」と。散々まくしたてるフロントの女性、「Radisson Blu は2件あるのよ」みたいな。
じぇじぇじぇ、早く言ってよ!電話掛けて確かめてもらうと、果たしてもう一件の「Radisson Blu」というホテルに名前があるそう。
それで、タクシーを呼んでもらって、ようやく到着。と、思ったら、メールのコピーを忘れてきてしまった!で、また取りに行くハメに。本当にトホホな旅の始まりだ。

夜、ヘルシンキ経由で沢山のメンバーが到着した。今回、日弁連のツアーに入れてもらっているのだが、その中に福島県いわき市の浜通り法律事務所の渡辺淑彦弁護士の姿を見つけ、ロビーで思わずハグしたのだった。
渡辺弁護士とは初対面なのだが、Facebookでは随分前から知っていて、本当に会いたかった人なのだ。出会いに感謝だ!

追伸 またまたトラブル発生。メールが受信できない。むむ、急用の方はTwitterまたはFacebookでご連絡をお願いします。

という訳で、トホホで始まったウクライナの旅の嬉しい出会いの写真とようやく辿り着いたRadisson Blu ホテル。
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2013.5.11

2013年5月11日 土曜日

土曜日は朝から荷造りに明け暮れました。
なれない海外旅行で、めっちゃ心配。
まず、携帯電話やノートパソコン類の付属物が多いこと。
電源やらコネクターやら、ものすごい量です。

いまさっきトランジットのフランクフルトに着きました。
すると我がiPhneは勝手に現地時間になるんですよ。びっくりしたなぁ、もう。
で、キエフ行きまで3時間ほどの間に、電源を求めてラウンジに陣取り、TwittereとFacebookを覗いています。

問題はウクライナで通信ができるのか…運命やいかに……ちとオーバーか。

写真はミンスク上空の朝焼けです。5.12 8:00 am
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2013.5.10

2013年5月10日 金曜日

怒濤の週が終わった。
もう休んでないで、支度しないと。

何が待っているのか、どんな風景に出会えるのか分からない。ともかくキエフに行ってきます。
出来る限り、TwitterやFacebookやここでもご報告をしたいと思います。
では!

青葉風キエフも曇り13℃
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2013.5.9

2013年5月9日 木曜日

今週はどこを切り取っても怒濤のような瞬間の連続なのだが、残すところあと一日になった。

午後一番に田中幸子編集長のアイルランドへの引っ越し先が決まったとFacebookのタイムラインにUPされていた。なかなか素敵なお家だ。
ここのところ、彼女のスケジュールがタイトで気がかりだったのだけれども、これで一安心。

この春に、長年の友人である脇ゆうりかちゃんが松戸から転勤で津に行ったのだが、少し落ち着いたとみえて「こども東葛ネット」と「関東ネット」で精力的に動き始めた。
こういう事が最近はFacebookのチャットやタイムラインで確認し合えるので、本当に便利になっている。

自民党の憲法案だと表現の自由や結社の自由に規制が掛けられる訳で、するとSNSとか全然使えなくなってしまう。
何が何でも96条は絶対に死守しなくては、と。

ウクライナにはドルを持ってゆくので、閉診後に銀座コアの換金所へ。
いつもの通り、iPhoneでパチリ。
旅行に持ってゆくカメラについて、実はずっと迷っていた。けれども今回はこれでよし、これに決めよう。iPhone とiPad miniがあれば、カメラはもういいや、とやっと今夜割り切ることにした。
ネット接続のことを考えると、現代の旅は国内でもものすごく持ち物が多い青木なのだが、初めての東ヨーロッパではどうなることやら。
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2013.5.8

2013年5月8日 水曜日

わらわらしながら、午前中で診療を終えて、午後から関西学院大学@丸の内キャンパスの日だ。

医療部会は松井英介氏の内部被爆の基礎勉強会。聞きながら余りの前途多難さに、途中で何度も気が遠くなる。
続いて、本研究会。人数がぐっと増え、色々な議題が出てくる。いつものことなのだが、ともかく取り留めがない。
会の終盤にあるメンバーが「復興って、いつまで続くのでしょうね。僕たちはどんなタイミングで手を引くのでしょうか」

恐らく、これから我々が死しても、ずっと復興は続くのだと思うのだ、この国は。
いつも思うのだが、1923年の関東大震災から日本は全く復興ができずに、内需拡大は望めず外需を高めるために大陸へ打って出た。その始まりが柳条湖事件である訳で、そこから日中戦争に突っ込んでゆく。もっと言えば、1923年に発行した国債・災害復興債の召還が1928年に来るのだが全く召還できなかった。それで昭和金融恐慌が起こるのだ。内需が延びず、この国は侵略戦争に打って出る。
日中戦争からやがて太平洋戦争へ突き進み、奇襲作戦によりメリケンから鉄槌を喰らいボコボコにされて、で、1945年に敗戦を迎えた。因って、事実上の関東大震災の災害復興は1945年の8月16日から始まったといっても過言ではないのだ。大好きな津久井進弁護士曰く、日本国憲法は災害復興憲法の最たるものだという。
そのぐらい、関東大震災という震災は日本の近代史に大きな陰を落とした災害だった。

それを思えば、私たちの国は沖縄問題を鑑みれば分かるように、アジア問題を鑑みれば自明のように、まだまだ「戦後復興」は成されていやしない。
と、考えてくると関学の研究室に通うようになってから、数えきれないほど「復興とは?」という問いや解を話し合ってきたのだけれども、考えれば考えるほど益々分からなくなってくるのが復興の定義なのだ。半減期が24000年もあるプルトニウムからの復興など、人間は誰一人として想像できないことなのだと思う。

さて今日は、いつもよりもちょっと、頭が回らないでがんす。失礼いたしました。おやすみマンモス!
追伸 あと2つ寝れば、ウクライナ。現地集合の一人旅。段々心配になってきた青木でがんす!


まみさんの「まけないぞう」ヴェルデちゃん&ミチルちゃんが 作り手さんにご対面!! ’the evidence that I survived from tsunami finally came back to see me today!”, said Tomiko-san, Makenaizo Maker.

2013年5月7日 火曜日

【makenaizoneメンバー 若林まみより】
5月5日、被災地NGO恊働センターの増島智子さんに遠野の仮設住宅の集会所に連れて行っていただきました。
そこでなんと 今回私が東京から一緒に連れて来た私の2頭のぞうさんのヴェルデちゃんとミチルちゃんをご覧になった作り手さんのおひとりの富子さんが、
「このぞうさん達 のタオルの模様、覚えてる!両方とも私が縫ったぞうさんだ!ぞうさんに縫い付けてある”絆”のロゴ入りのリボンの縫い付け方が2頭とも確かに私のだ わ!!」と!
なんと私が2011年の10月に購入した緑色のぞうさんヴェルデちゃんと2012年の8月にお誕生日プレゼントとして“まけないぞう”の応援団の makenaizoneを主宰していらっしゃる青木正美先生から私が頂いた青色ぞうさ んのミチルちゃんの作り手さんがなんと同一人物であった上に、初めての遠野で最初に伺った仮設住宅にてその作り手さんご自身に いきなり出会えるなんてもう本当に信じられず、作り手さんも私も大感激。
ご自分が作られたぞうさん(それも2頭)に再会し、「私の生きた証がここに戻って きてくれてまた会えて嬉しい!」とおっしゃった富子さんのお言葉に涙が溢れた遠野での幸せな午後でした!
こんな素晴らしいご縁に恵まれ、改めて“まけない ぞうプロジェクト”に出会601897_450088995085849_1058217895_nえたことに感謝し、これからもずっと応援を続けて行きたい!という気持ちがいっぱいになったまだ春浅い遠野での出来事でした。
***
【Message from Mami Wakabayashi, the editor of makenaizone FB Page】Tomoko Masujima-san, the member of NGO Collaboration Center kindly took me to the temporary housing in Tono City, Iwate Pref. on May 5th, where I met the person who have actually made two of my Makenaizo Elephants, Verde-chan & Michiru-chan!
The name of the elephant maker is Tomiko-san, and she could tell that these elephants were the ones she herself made by the pattern & the color of the towel she remembered, and how the ribbon of Bond has been sewn onto the towel. I was just so much touched by this amazing & wonderful encounter in Toho City, and Tomiko-san’s words “I am so happy & moved to be able to see the Never give up elephants which are the evidence that I survived from tsunami finally came back to see me today!” made me cry. What a blessing!! And I got more determined to support this wonderful project for the rest of my life!


2013.5.7

ゴールデンウィークが終わって、昼夜逆転を大調節して、いつもの日常が始まったのだが、明日の午後は研究会で休診、来週から休診ということで、ものすごい外来にあいなった。
それにしても体力や集中力や諸々が低下しているなぁ、などと身にしみる一日だった。
えっと、歳を重ねるごとに、いい味が出る職業についている人を心から眩しく思うのは、こんな時だ。役者さんとか、ゲージュツ家とか。

昨日の日記に書いたmamiちゃんが、東北から元気に帰ってきた。
2泊3日だけれども、みっちりと増島智子さんに密着して遠野から三陸の各地を回ってきたもよう。
先ほどちょっとチャットして、疲れて少し痛いながらも充実した3日間だった様子に、わたしはもう一度深く感動したのだった。
ボランティアで被災地を訪れるとき、特に被災地に宿泊する時には、沢山の人と会う。いつもの旅よりも何倍も感動し感激し学び、共感し、そして何十倍もの反省と後悔をする。知らず知らずのうちに懺悔をするのだ。そうして自分の小ささを思い知る旅になる。mamiちゃんもそんな旅を終えて、東京に戻ってきたに違いない。
どうか今夜は、ゆっくり休んでください。最後に♡マークを入れて、労いのチャットを終わりにした。

さぁて、もう本気で荷造りをしなくちゃと思いつつ、本日は寝るとしよう。
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