2013.5.13

2013年5月13日 月曜日

そもそも、わたしがどうしてもチェルノブイリとりわけキエフに行きたいと思ってきたのかというと、チェルノブイリには日本の25年後があるとずっと思い続けてきたからだ。
原発震災のことを考えると、どの方向から歩いていっても、必ずチェルノブイリに辿り着く。そのぐらいあの事故と、あの事故への国の対処は、福島の事故の模範になっている。模範というのもおかしいのけれども。

国は事故を過小評価し、隠蔽したかった。世界に事故のことが知らされたのは、1986年4月29日のキエフの新聞の3面に小さく記事が載った。そうして7時間の時差があっての4月29日のニューヨークタイムズの一面に、放射能雲の流れの地図が載って、全世界にこの事故の知るところとなったのだ。
もちろん27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所の従業員が、自身の外部被爆が放射線管理で引っかかり、この事故に気づくのだが……。


ところで、チェルオブイリ原発から3キロのところに、プリピァチという町があった。今日の朝この町からキエフに避難した人たちが作っているNPOの方々のお話を伺った。恐ろしく良くできる日本人の通訳も入れてだが、私たち一行16人とNPOの方々7〜8人との会談は3時間を超えたものとなった。

わたしが一番聞きたかったのは、医療のことについてだ。特に直後の医療体制がどうだったのかをどうしても聞きたかった。
もしかしたら順番が逆だったのかもしれないが、午後からは「チェルノブイリ博物館」に行った。
ここでプリピァチの町のデータを知り、わたしは立ち尽くしたのだった。

人口が50000人、うち子どもが17000人。年間1000人の新生児が誕生していた。つまり月に80以上のお産があったのだ。町の平均年齢は26歳。
そうしてプリピァチの町のビデオが流れていた。いわゆるホワイトカラーの家庭の人々の暮らし。1986年あたりでは、世界でも裕福な暮らしぶりだった。東ヨーロッパではピカイチの生活水準だったのだろう。
それが一転して、4月27日には1時間で荷物をまとめるようにとの指示があって、1200台のバスと、1500座席の列車3台に積み込まれて避難の旅立ちをしたのだった。

こういう状況の中をたった一時間で荷造りをして、3日で帰れると言われてプリピァチから逃げてきた方々から話を伺ったのだ。

というところで、朝は9時から地下鉄やトンでもなバスでの移動、極めつけは1.5kmで高低差がめっちゃくちゃある(何と言ってもケーブルカーが通っている山なのだ)を上るというおまけまでついて、もうこれ以上は今夜は無理だと思われ……おやすみなさい!
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