母の祥月命日に思ふ

2011年12月20日 火曜日

12月20日は17回目の母の祥月命日でした。
91年に直腸がんが見つかって手術。その後、転移をして94年の12月20日に天に召されるまで、母は転移の恐怖と闘っていました。

恐怖と闘っていたのは、母ばかりではありませんでした。父や弟や、もちろんわたし自身も、母の再発・転移の恐怖と闘っていました。
数ヶ月に一回検査をして、転移の兆候がなければホッと胸をなで下ろす日々でした。
94年の夏に転移が見つかってからは、少し落ち込むことはありましたが、逆に宣告を受けた後の母は、とても前向きになっていきました。

同じ夏、わたしは自分の仕事に関して、自分のオファーが受け入れられるか否か、返事を待っていました。しかし、なかなか返事が来ませんでした。季節は夏から冬に残酷に時を刻んで往きました。
返事を待っている間に、わたしの心は確実に荒んでいきました。
母が亡くなり年が明ける頃、そのオファーは白紙に戻され、わたしは暫くの間、職を失うことになりました。
その約10日後に、阪神・淡路大震災が起こりました。
無職のわたしはすぐに神戸へと入りました。その体験が、現在のわたしの活動の原点でもあります。

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人は時を心に刻みながら生きてゆく生物です。
時間というものは、必ず前に進んで往きます。否でも応でも、前にしか進みません。
その刻む時間の中で、「どっちつかず」で待つ時間ほど、心を蝕むものはありません。

死んで行った母は、死を宣告された後は完全に吹っ切れたように、とても前向きに生きて果ててゆきました。
しかし、同じ夏から冬にかけて、わたしはひたすら返事を待ち続け苦しかった時間のことを、いまだに鮮やかに覚えていることを発見しました。
本当に本当に長くて苦しくて切なかった。「どっちつかず」でわたしは自暴自棄にさえなれず、ひたすらdepressionになってゆきました。

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翻って、今、福島の被災地では、あてどなく「どっちつかず」で待っている避難者がどれほどおられることでしょう。
政府は先週末、20km圏の強制避難地域において、年間50mSv以上は土地を買い上げるか借り上げる。年間20mSv未満の場所には来春から住民を返す、と発表しました。
50以下20以上の場所については具体的にはまだ決まっていません。

年間20mSvとは、毎時にすると2.3μSvです。これ自体たいへんな高線量です。そこに帰るかどうかを今現在、何万という人々が「どっちつかず」で待っている……。
放射能で汚れてしまった場所であるけれども、愛しいいとしい古郷です。たった9ヶ月前までは、その場所に暮らしがあったのです。
日々の営みがあったのです。春には桜が咲いて、夏には入道雲がモクモク出て、秋には沢山の収穫があり、冬には火燵に入って、いつもの年なら間もなく誰の家にもクリスマスが来て、お正月が来ていたのではないでしょうか。それが理不尽に、中途で途絶してしまった……。

今まで当たり前であった家族や仕事や家や学校や、東京に住むわたしなぞがいくら想像してもしても、思いつかないぐらいの沢山のものを、福島の方々は一瞬して失ってしまった。けれどもけれども、そこまで失ってしまった方々に、もうこれ以上何も失うことを阻止するお手伝いが、わたしたちには出来ないのでしょうか。
避難されている方々は、肉体的にも精神的にも経済的にも、自ら声をあげる余裕はないのだと思います。

帰りたいのは山々でしょうが、きっぱりと帰れないですと言って差し上げることが、後の人生のためになるのではないだろうか……「20mSv地域に帰ることは大変に危険だから、迷っているなら止めるべきです。悔しくて悲しいお気持ちはよく分りますが、心を整理して敢えて帰らない、という選択をしてみませんか」……そういう、至極真っ当な議論を始めることは、もしかしたらわたしに課せられた大きな仕事なのではないかと、強く重く感じ入った母の17回目の祥月命日の晩です。


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