ジョブズの夢が 手のひらにホラ

2011年10月6日 木曜日

今日、アップルの創業者である、スーティーブ・ジョブズさんが亡くなりました。

朝からこのニュースで、インターネットの世界では、お悔やみの言葉が行き交っていました。世界中のアップルストアーには、彼の死を悼む人々からの花が手向けられているようです。

スーティーブ・ジョブズ氏の送り出したパソコンは、今のわたし達の生活には、無くてはならないものです。もしもこう言ってよければ、彼はおそらくわたしの人生に最も影響を与えた5人の中に入る人だったと思います。彼にはもちろん、一度も会ったことはありませんが、わたしは36歳の時から、彼の生み出すものに全く触れないで一日を終えたことは、数えるほどしか無かったと思います。そうして、たった今も、appleのMacBookでこの原稿を書いています。

この事は、以前にも読んで頂いたかもしれませんが、1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災が、その後のわたしの生き方を変える出来事でありました。
二つの意味で。

一つは、震災とは何か、ということでした。父の一家は関東大震災の時に、新宿の淀橋・現在の新宿区西新宿に住んでいました。東京の武蔵野大地の始まりで大きな浄水場があった地なので、震災は免れたものの幾晩も西の空が赤かったと、祖母や叔母に聞いた事がありました。関東大震災は東京に住む者には、大きな出来事でした。あの大戦を跨いでもなお。
そうして世代を超えて言い伝えられてきた大震災と初めて向き合ったのが、阪神・淡路大震災でありました。

もう一つは、あの震災の神戸で、パソコン通信と出会ったことでした。わたしは神戸市中央区保健所で医療ボランティアをしていました。その時に、関西のドクターがパソコンを持ち込んで何やら誰かと連絡を取っていました。話を聞くと、それがニフティーサーブのパソコン通信というものでした。この衝撃もたいへん大きな衝撃でした。

神戸から帰って、わたしが一番初めにしたことは、パソコン通信を習得するということでした。新聞広告でパソコンを教えてくれる先生を捜し、念願のニフティーに繋いだのが1995年の5月ぐらいだったと思います。
その日を境に、決してオーバーでなくわたしの生き方が大きく変わっていったと思います。なぜなら、パソコンを通して他者と通信をするというライフスタイルが始まったからです。

やがてパソコン通信はインターネットへとスイッチをしてゆきましたが、そうして実にいろいろなツール、例えば今なら、Twitter や FaceBookなどで世界中の人々と通信をしていますが、わたしはあの日以来、ずっとappleのパソコンを使ってきました。

もしもあのとき、神戸でパソコン通信と出会うことがなかったら、たった今、ここでこうしてmakenaizoneを始めてはいなかったことでしょう。
幼なじみの田中編集長がオーストリアで「どんと来い」と構えていてくれるおかげて、こうしてインターネットを駆使して、世界中にまけないぞうを発信しようと考えたのでした。田中編集長もまたappleのユーザーです。

そういう意味で、わたしの災害に対するスタンスやインターネットでの通信の基盤は、appleの存在なしでは語れない、本当に本当に大きなものなのでした。

と、話が長くなってしまいましたが、わたしの生涯にはなくてはならぬのがappleのパソコンだというお話を、どうしても書き留めておきたくなった晩です。
もちろん一度も会った事もないけれど、ずっと一緒に歩いてきたスティーブ・ジョブズへ。
心からありがとう、そしておつかれさま。


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