ナインイレブン

2011年9月11日 日曜日

あの911から10年が経ったということで、テレビや新聞ではいろいろな特集を流しています。
makenaizoneのメンバーの我謝京子監督(ニューヨーク在住)も日本のラジオ番組で911について取材を受けていました。

しかし、911よりも何よりも、私自身この国に住んでいて、あの311からそれこそ全く違う世界・アナザーワールドを生きているといっても過言ではありません。私たちは311のただ中を生きている……。
だからでしょうか。昨夜の宮田さんの演奏は、痛いほど心に響いて、しばらく鳴り止むことはありませんでした。
こういう素晴らしい音楽を聴くことができる機会・空間を心から大切にしなければ、と、わたしは深く心に刻んで帰宅しました。
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前にもお話ししたかもしれませんが、わたしは1995年1月20日に神戸の街に入りました。そのとき見た光景を、そのとき体験したことを、恐らく一生忘れないでしょう。
地震で倒れた高速道路、家、家、家……。戦争も紛争も知らない世代であるわたしは、目の前にある光景が俄には信じられませんでした。

               
東京の私の家は東京都中央区、都会のど真ん中にあります。神戸と同じような被害が出れば、確実に何万人もの人々が死ぬでしょう。東京に帰ったわたしは、それこそ自己流で地震災害の本を読みまくりました。
そのうちに、ハタと原発震災が起こればどうなるのだろうと考え始めました。中部電力浜岡原発が動いているうちに東海地震が来ると、東京は大変な事になる。

2007年には、神戸の兵庫県震災復興研究センターの主催で、神戸大学名誉教授の石橋克彦先生とご一緒にシンポジウムを開催させていただきました。このシンポジウムで石橋先生に、どれほど浜岡原発が危険な存在なものなのかを懇切丁寧に教えていただきました。以来石橋先生と親しくさせていただいていますが、東海地震の前に浜岡原発を止めようとわたしなりに行動してきたつもりでした。

ところが311が起こり、福島原発が壊れて、放射線汚染が起こってしまいました。わたしが今回の震災で自分の無力さを痛感したのは、自分は以前から浜岡原発の怖さを分かっているつもりでしたのに、この度の地震での原発震災の規模については全く無知であったことに、本当に呆然としてしまいました。
現実の放射線被害は、余りにも大きなものだったという事実に、今更ながら自分の知識の無さ、自分の想像力の貧しさに、心底途方に暮れてしまったのでした。

放射線は目に見えません。匂いもありません。音もしません。味もしません。わたしたちの五感で感じることは全くできません。今のような、低線量の被爆が長い間続いた場合、これから何が起こるのかさえも正確には分かっていません。
けれども今、わたしたちが放射線について、知ろうとしなければ、わたしたちの後の世代を苦しめることになるでしょう。

今日、福島の第一原発周囲の町の様子を「死の町」と言った大臣が辞めさせられました。
けれども、わたしたちが今まで、余りにも知らなかったがために、福島原発の周辺は正に人っ子一人居ない「死の町」になってしまいました。
もしも原発のリスクがもっと以前に、わたしたちに分かっていれば、きっと違った結果になっていたのではないでしょうか。

それではどうすればいいのでしょうか。まず、どうか imagineしてください。この国の3ヶ月後、6ヶ月後、1年後、3年後、5年後、10年後、15年後、30年後、どうなっているのでしょう。あなたの身体は? あなたの大切な人の身体は? 他人ごとではなくて、皆でしっかりと考えていきましょう。特に若い人にわたしはもっと考えて欲しいのです。
その気になれば、今これをご覧になっているPCから、たった一回の地震被害で、どれだけこの国が傷んでしまったのかが簡単に検索できます。

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この9月19日には『さようなら原発1000万人アクション』の5万人デモなどの催しがあります。
わたしは次の大きな地震災害に備えて「原発は直ちに止めるべき」であると思います。
日本は恐らく何千年ぶりに、地震の多発期に入っています。ですから、いまや全ての日本人が、外部被爆はもとより内部被爆をどれぐらい最小限にしていけるのかという事に、英知を結集していかねばならない時期だと思います。

さあて、空を身上げれば、十四夜の青い月がきれいな夜です。


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