4月7日 タオル仕分け隊の家藤さんと、17年前にも・・・すごいご縁があったのです。

2012年4月7日 土曜日

昨日の夜、私たちの事務所の会議室(元居酒屋)で、恒例の寺子屋勉強会があり、家藤さんが参加してくれました。

勉強会が終わったあとも、若い人と話が盛り上がり、結局終電ギリギリで走って帰られました。
話の中で、凄いご縁があったことを発見しました。私たちのNGOは、1995年1月19日(震災2日後)に立ち上がった「阪神大震災地元NGO救援連絡会議」の分科会として発足したのですが、なんと当時家藤さんも被災者でありながらも、ボランティアに奔走していたようで「星組」というグループ名で、おなじく先の阪神大震災地元NGO救援連絡会議に出入りしていたようです。当時その頃私は神戸市兵庫区内の「ちびくろ保育園」を拠点にできたボランティアグループ(ちびくろ救援ぐるーぷ)に所属していて、同じように私も地元NGOに出入りしていたのです。ということは、なんと17年前に同じ会場で、同じ空気を感じ合っていたということです。これにはびっくりです。
余談ですが、家藤さんは少年野球の指導者もしておられますが、私も阪神淡路大震災直前まで12年間やっていました。

実は阪神淡路大震災後、私が所属した「ちびくろ救援ぐるーぷ」というのは、その後名前が変わり、「ぐるーぷ”えん”」としました。そして元居酒屋だった現事務所を借りた後、ボランティア居酒屋を1年半営業していました。(当たり前ですが、きちんと営業届け、保健所の許可をとって)その時の居酒屋の名前は「酒えん」でした。
ボランティアの中に、プロの板前さんがいたのです。その彼を中心に、私たちは活動があるので交代で皿洗いをしたり、もともと料理の得意な増島は、さらにその板前から和食料理の神髄を伝授して貰ったりしていました。結構評判になって、お客さんは「ここはボランティアでやっているのに、何でこんな旨いんや!」と言う人が多かったのです。「ボランティア居酒屋とは言っていますが、プロの板前さんがやっているんです。」というのに、同じ質問をされるかたがいました。その彼が実家の親父さんが倒れやむ得ず実家に帰ったので営業は中止しましたが、ここで宴会をするときは、時々その時に伝授して頂いた「イワシ料理」を出します。その場にいた人が、「ここの料理は素人なのに、プロのイワシ専門店より旨いなぁ!」とイワシ好きの方が言われたのを聞いて、「あっそうか!彼の腕前は相当なものだったんだ。彼に教わった通りにやっていて、こういう評価を受けると言うことは、一般の店と違うんだ!」ということに気づきました。彼にそのことを電話で伝えると、「それはたぶん、イワシごときで、あそこまで手間暇かけませんから・・・・」という答えでした。
「なるほど、私たちは彼から最高の技術を伝授して貰っていたのか!」ということに気づきました。

PS:何故「ぐるーぷ”えん”」とひらがなにしたかといいますと、円・縁・援・宴・艶などなどありますが、事務局長だった夜間高校生が「うちら漢字やったら読まれへんから、ひらがなの”えん”で行こう」となり、この名前になりました。

まぁ、ほんとに「縁」というのは不思議なものですネ!
そういう意味では、田中編集長ともあの時に、同じ空の下で各々の涙を流していたんですよね・・・・。
そして17年目の「1・17」に、カトリックの田中編集長が観音様の前でお祈りを捧げられました。
今年の「1・17」は、すごい意義のある1日を過ごさせて頂きました。
そして「3・11」、遠く離れたオーストリアの地から田中編集長は、思いを馳せられました。
やはり、同じ空の下で・・・・・。

原発のこと、まけないぞうの作り手さんを通してのお一人おひとりの生き様、そして洪水のごとく流れたいろいろな人たちのコメントや評論などなど・・・・・。そんな中で、やはり田中編集長が言われたように「ぶれずに」自分と向き合うことが大事かなぁと痛感します。先日亡くなられた思想家「吉本隆明」さんは、こういう厳しいご時世では、「小さく小さく考えよう」と言っておられました。

 

私どもの寺子屋は、同じ思いで開催しています。30人ほどで満杯になる小さな会ですが、やはり確実に、手応えのある学びが必要かと思います。
今晩も、『福島の再生のために”フクシマ”と向き合おう!』というテーマでの寺子屋勉強会です。

東日本大震災のことを、「忘れない!」ということはもちろん大切なことです。
もう一つ、今かなり注目されている『「フクシマ」論 〜原子力ムラは、何故生まれたのか』(開沼博著、青土社、2011/6/30第一刷発行)を読んで「ハッ!」としました。この第2次世界大戦後、70年ほどの間で「変わらなかった」ことは何か?ということです。結果的に、私たちは原発を容認してきました。何故、止められなかったのか?何故、いまも世界の何処かで紛争が亡くならないのか?何故、「ミナマタ」は繰り返すのか?などなどと、「変わらなかった」こと。ここで踏ん張って、一人ひとりがそのことと向き合うことが大事だと思いました。

スミマセン、固苦しい話になって。

まけないぞうの作り手さんは、「まけないぞうと共に!」ですね。まけないゾーンの私たちも、各々の「まけないぞうと共に!」ですね。増島が神戸に戻ってきて、新たなスタートです。
みなさん、これまでと変わりなくまけないぞうをご愛顧下さいませ!!


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