2011年9月28日 増島智子さん講演会

2011年10月11日 火曜日

2011年9月28日

増島智子さん(被災地NGO恊働センター)の講演会が行われました。

その実録をご覧ください。

記録メモ作成:紫牟田伸子

写真撮影:大久保成

  構成:田中幸子 

東日本大震災の発生から現在まで

未曾有の被害をもたらした 2011年3月11日 午後2時46分の東日本大震災。

日本の史上、最も強かったと言われるマグニチュード9、津波は最大40メートルに達しました。

9月20日現在、犠牲者は15,799名、行方不明者4,053名と、非常に数多くの方々が犠牲になっておられます。

現在 わたしが入っている岩手県では、犠牲者4,660名、行方不明者1,663名(9月20日現在)となっています。

現在の被災地の状況は、お盆を境にして避難所から仮設住宅へ皆さんが移られたところです。

岩手県だけでも13,984戸の仮設住宅ができています。仮設住宅や「みなし仮設」も含めると、被災地全体で約10万戸の仮設住宅が建設されています。

被災地NGO恊働センターでは、この大災害が起こってから4時間後に、「行けるところまで行こう」ということで先遣隊を宮城県まで派遣しました。途中、ガソリンがなかったりして状況が悪く、名取で活動を始めた直後、福島原発の爆発により山形県の米沢に退避しました。米沢で福島から避難している人々の支援活動に関わっていました。

その後、岩手県の遠野のNPOからSOSがあり、3月26日 遠野に入りました。

そのときの大槌町の様子は、すべて土台だけを残すのみで全部、津波に持っていかれたという状況でした。

神戸の震災時、長田区の焼けた跡を見ると、戦争後の焼け野原のような感じで、実際お年寄りも「焼け野原に似ている」と言っておられたのです。

今回の震災は、正直、被災地に入ることを躊躇するぐらいの状況でした。

この大槌町では、役場ごと流されてしまったことで町長以下、職員の方々も33名が亡くなられたという、大きな被害があったところです。

大槌では被災された方に話をきくと、ヘドロを含んだ「黒い津波」の後に「赤い津波」がきたというのです。

この地域ではプロパンガスが使われているので、そのガスボンベが爆発し、それが赤い炎の津波となって、押し寄せたのです。神戸の震災では戦争の焼け野原と思いましたが、大槌町の光景は広島や長崎の原爆の落ちた後の焼け野原はこんな情景だったかと思われるような状態でした。

想像を絶するとはこういうことでしょうか。

車がミニカーのように折れ曲がったりして、意味がよくわからないような被災の状況でした。

三陸は水産物も豊かな地方なので、水産加工を行う工場が数多くあったのですが、そのような工場の冷蔵庫も全部やられてしまって、産物も設備も全て流されてしまいました。

流された家の残骸にうっすらと雪が積もって、寒さとともに、被災地の悲惨な状況に言葉を失う酷さでした。

陸前高田では、沿岸に7万本の松林がありましたが、一本だけ松の木が奇跡的に残りました。

大槌と違って火災はなかったのですが、広範囲に津波に全てが持っていかれてしまいました。明治昭和の「三陸大津波」の被害を教訓に「津波浸水想定地域』の看板がほうぼうに立てられていましたが、それをゆうに超える高さの津波に襲われたのです。

陸前高田の海岸には、埋め立てをしてつくられた商業施設がありましたが、それが津波で全て持って行かれてしまい、海になってしまいました。

陸前高田高校は海から1~2キロのところに4階建の校舎がありましたが、これも津波の影響で全て使えなくなっています。

岩手県遠野市に拠点を置いて活動

最初にわたしたちが入ったのが大槌町、それから陸前高田に入りました。いまは拠点を遠野市に置いて活動しています。

遠野市は岩手県の内陸にあって、直接の被害を受けなかった場所です。一番被害のひどかった場所に行くにも1時間くらいのところに位置しています。

被災した所ではライフラインが破壊されているので、直接被害を受けておらず、柔軟に被災地までの活動ができる遠野市に拠点を置くことにしました。当初、ガソリンがなかったときにも一応ガソリンもありましたし、スーパーもあったので、そこに基地を置いたのです。

今回の震災では、ボランティア自身も精神的に自分の状態を保つのが厳しい状態で、ボランティアも鬱になったり、プロのサイバーレスキュー隊も精神的に追いつめられるような状況だったので、遠野に拠点を置くことで、被災地の現場まで車で1~2時間かかる道中でいろいろな話をすることでスイッチのオンオフができるということもあります。

様々なNPO、団体、社会福祉センター等が共同で、「遠野まごころネット」を3月27日設立しました。そこに多くの人が支援に来てくれるようになり、現在、54団体のネットワークになっています。(注1)

後方支援としてカバーしている地域は、大槌町、および陸前高田、釜石、大船渡の3市です。

わたしたちの「被災地NGO恊働センター」は1995年の阪神淡路大震災のときに設立されました。(注2)

そのときは「ボランテイア元年」と言われるほど数多くのボランテイアが被災地に入って、たくさんの市民活動団体が生まれました。わたしたちもそのなかのひとつで、代表の村井は「普通のおじさん」で、長田区で靴職人をしていました。

最初は「NGOって何?・・・(N)なんでも(G)がんばる(O)おじさんおばさんクラブ」?と言っていたほど手探りではじめたのでした。

そのころ、ご存知のように、世界から各地からたくさんの支援を受けて、とても感謝したのです。今度の震災では、そのとき受けた支援を被災地に返したいと思いがありました。自分も実は東京出身でしたが、ボランティアで関西にいったのが初めての神戸入りでした。

関西は地震がほとんどなかったので、関西の人は地震が来るわけがないと思っていて、見向きもしなかった。他人事だと思っていたら、自分のところに大きな地震がきて人に助けられたのです。次は誰かを支援してお返しをしたいと思って、それから国内外の災害支援をずっとやってきています。そして今回の災害でも岩手県を拠点として、支援の活動をすることになったのです。

KOBE発 生きがい支援事業「まけないぞう」

岩手に入った翌日から、避難所で「まけないぞう」を展開し始めました。

殺伐とした避難所のなかで、「手芸なんか・・・」という雰囲気が正直言ってありました。最初は被災した方々も「なにこれ?」と遠巻きにして様子を見ていたのです。震災から2週間くらいの、この頃ぞうをやりはじめたときは、そのような状態でした。

今まで、神戸の震災のときには、「まけないぞう」を仮設住宅からはじめたのですが、避難所で始めるというのは初めてでしたので、私たちも躊躇しながら始めたのです。

地方の人はすべて自分たちで作ってきたのですね。野菜を作って、裁縫とかも皆さんやっておられるのですね。だから一度やりはじめたら、みんなが夢中になって、どんどんつくりはじめたのです。

そのときに言われたことは、「久しぶりに津波のことを忘れられた」ということでした。

「家族が目の前で流された、家が流された」、というようなことをずっと考えていたけれども、ものをつくることは集中できるので、「津波のことが忘れられた」と言ってくださいました。

被災された方々は、震災のあとずっと支えられ続けている状態にありましたが、人は支えられ続けるとしんどいのですね。

神戸でもそうだったけれども、支えられているが、自分もなにか役に立ちたいと思っている。たまたまぞうさんを受け取った方が、ふだん自分たちの生活の中で、震災の中でたいへんでもがんばっているんだというメッセージを受け取った、「わたしも元気や勇気をもらいました」と支援者の方からそういうメッセージがくるようになった。

そんなふうに、支援者と被災者という枠を超えて、「まけないぞう」がお互いに支え合うツールになるのです。

いろいろな人に物資をもらった被災地の方、何もかも流されてしまった方たちも、なにかをしてあげたい、世話になったお返しがしたいと思っていて、ぞうをつくることによって、自分も恩返しができることがうれしいと言ってくださる方がおられました。

一番最初に村井代表が「まけないぞう」のことを説明したのは、大槌町にある伝承館という公民館のようなところでした。

180人くらいの方がぎゅうぎゅうに入っていた避難所で、ひとりに一畳もないほどいっぱいでした。みんな室内にいるのに外とかわらない格好をしています。

この写真に写っている、一番手前にいる子どもさんは小学校4年生、夢中になってぞうをつくっていました。すごく上手で針を使う手つきもとても子どもとは思えないほどでした。

とてもおとなしそうに夢中でぞうさんを作ってくれた、この子どもさんは、実は家を流されたのだそうです。

青い半纏のおばあちゃんも、とても上手でした。被災者の中に器用な人が必ずいて、そういう人から他の人が教えてもらったり、ボランテイアで現地へ来た若い人も教えてもらったり。誰が教える側だかわからないほど、上手なんです。

「まけないぞう」の仕組み

「まけないぞう」は、「1本のタオル運動」として、96年より始まりました。ちょうどその頃、重油事故でひとつひとつ石をふくために全国からタオルが寄せられたことに村井がヒントを得て、「タオルってこんなに集まるのか」と言って始まったのです。

仮設住宅での孤独死を避けるために、何か生き甲斐づくり、生活に張りの出る何かができないだろうかと考えていました。タオルならたくさんすぐ集まるので、雑巾でもつくったらどうかということになりました。たまたま、タオルで「まけないぞう」をつくってくれたのは、西宮に住んでいた被災した方でした。雑巾よりこのぞうさんのほうがかわいい!・・・こうして、ぞうさんが生まれたのです。

よく「がんばるぞう」と言われます。「まけないぞう」ですと言って渡した先から、「がんばるぞう」と言われてしまいますが・・・

被災した方々は「がんばれ」というメッセージをたくさんもらうのです。「がんばれ」と言われ続けて疲れてしまうのです。「これ以上がんばって、どないするねん!」という気持ちがあります。それも含めて「震災にまけない」という思いを込めて「まけないぞう」と名付けたのです。

「まけないぞうの役割」・・・

1)仕事:ひとつつくるごとに100円

「まけないぞう」は、加工賃として100円を作り手さんにお渡しします。400円のうち100円が収入になります。早いひとだと一ヶ月に8万円くらいになるのです。最初、神戸の長田区のケミカルシューズの人たちにつくってもらったら、当時8万円以上の収入になりました。ケミカルシューズの仕事では200円の時給で働いていた人たちが、震災で焼き出されて何もなくなって、「まけないぞう」作りをすることになったのですが、「ぞうづくり」では1時間に4個作れば、400円。ケミカルシューズの2倍の収入になり、次のステップアップになりました。

今回も、「ぜひ仕事としてやりたい」「これから先仕事を再開するためにつくる」という方もおられます。そういう人たちは1週間に100個くらい作って、「もっと作りたい」と言ってくれるので、うれしいかぎりです。こういう方たちは、「仕事づくり」としてやっている方です。

2)コミュニテイ:人と人をつなぐ

もうひとつはコミュニテイづくりという意味があります。

仮設住宅は抽選で入居するので、コミュニテイがばらばらになり、隣近所が知らない人だらけで「まるで外国にきたみたい」と孤独と不安を抱えています。同じ仮設住宅にいる同郷者ともなかなか会えないような状況です。また集会場のない仮設住宅も多く、その点が問題になっています。

6ヶ月たって、同じ仮設住宅にいる同士でも初めて出会うことができた人たちがいます。「あんた、どこにいたの?!」・・・「どこに住んでるの?」とといろいろ話してみたら「隣の棟だった」と。それぐらい、孤立しているということでもあるのです。

「まけないぞう」をきっかけに集まったことによって、そのように再会できて、またつながりが出来た。あるいは知らない人どうしが友だちになってコミュニテイーづくりに役立つということがあります。

まけないぞうを媒介に、人と人とがつながるのです。

3)生きがい:支え合い

仮設住宅に転居後に、避難所で会ったことのある方に再会しました。すると、「あのときほんとにぞうさんに救われたんだよ」という話をされたのです。

その方は、津波で孫を亡くされました。火が出たことで焼死してしまったのです。見つかったときには片腕がなくて、肩を押さえていたかたちのまま、手首もなかった。そのお孫さんを、さすってあげたかった、抱きしめてあげたかったけれど触れることもできなかった。もう一度孫を抱きしめたい、と話していました。

その話は避難所におられた時には聞かなかったことでしたので驚きましたが、避難所では、実はそういう人をマスコミがかぎつけてピンポイントで取材が来ていたのです。最初は素直に対応していましたが、もう話したくないとマスコミをシャットアウトしました。

そのあと、被災した方同士で話し合うにしても、状況がひとりひとり違い、家族を亡くした人もあれば、そうでない人もいる。家をなくした人もいれば、そうでない方もあって、いろいろな人がいるのです。話をしていると少しずつずれていくから、これ以上話すとしんどくなるので、人と話さないことにしたのだ、というのです。そうして、ずっと孫のことばかり考えていた、そのとき、たまたま「まけないぞう」に出会って、「まけないぞう」をやっていれば話さなくてすむ。人と話さないことによって、気持ちが楽になった。

「まけないぞう」は人と人をつなぐツールと思ってやっていたのですが、「こういうのもあるんだ」と思ったのでした。

「まけないぞう」ができたら人にプレゼントできるし、仮設に入ってもずっとぞうさんをつくっているよ、あのときぞうさんにあって、やることもなくて、人と話すのもつらかったけど、集中できて、ぞうさんが出来たら可愛いから、見舞に来た人にあげらることもできて影響を与えてくれたんだよ、感謝しているよ・・・と話されて、恐縮していました。

こんなふうに、いきがいづくりのきっかけになっているという面もあるのです。

「支え合い」とは?

・寄り添いー共に育ちー学び合う

・自然との共生

いま、遠野を拠点に活動していますが、遠野の手芸サークルの方たちが作りかたを覚えてくださって、いっしょに被災地に指導に行ってくださる方たちがおられます。

その手芸サークルに元看護師さんの人がおられます。35歳のときに脳梗塞からリハビリを重ねて復帰した人なので、以前は針も持てなかったが、一緒に活動しないか、と誘われて、最初は不安で心配だったが、大槌町に行ってちゃんと教えることができてほっとしたそうです。

そんなとき、高田に行ったときに会った被災された方が、手作りのひまわりのワッペンを、遠野のつくり手さんにプレゼントしてくれたのです。

支援をしているボランティアのほうが逆に被災された人から元気をもらって感激して、「ボランティアをやっていてよかった。ほんとに『がんばるぞう、まけないぞう」と思ったのだそうです。。一方通行の支援とは違うのだということを、まけないぞうを通して学ばされています。

支援者は安易に「自立支援」はやく「被災地の方々が自立できるように」というけれど、逆に避難所などでは、何もかもが与えられていることで、被災した方々が人の世話になり続けることで屈辱を感じている場合もあるかもしれないと学ばされています。

たとえば、福島から米沢へ避難した主婦の方の話を聞きました。温泉旅館に避難していて、とても居心地が良いのでは・・・と考えがちですが、実は温泉旅館で「上げ膳 据え膳」はとても辛い。自分は主婦なので、自分で自分の家族においしいご飯をたべさせるのが仕事だから、自分の仕事をとらないでほしいと言って、すぐに避難所を出たそうです。避難所では輪番制でごはん当番をすることもありますが、年配の人がリーダーになっていたりすると、年代の乖離が生じる場合もあって、若いお母さんなどは自分の子供にハンバーグを食べさせたいと思っても年配の人とは少し違うとか、そういうことが生じたりする面もあります。

外国の避難所では、コンロが家族単位でそれぞれあるところがあります。被災された方々でも、やはり当初のほんとうに何もかもなくなった状態であっても、自分たちでできることは自分たちでやりたいと思っている、最初自分たちそれぞれがつくれるようになるといいのでは、と教えられています。

「まけないぞう」を通しての「つぶやき」

仮設住宅にうつって落ち着いてからやりたい、と言っておられた人。避難したのは小さな公民館で家族同様で生活していました。いざ仮設に移る日が近づいたら、そこは被災地の裏手の山の高台にあって、被災地全体が見渡せるところなのです。これでもかというくらい、見たくない景色を見せつけられている所で、被災地を見ながらぼんやりしている人の姿がよく見られます。しかも、その仮設の入り口には斎場があるのです。ほんとうに買い物する場所もないし「陸の孤島だから入りたくない」と入居を拒否する人も出るような立地の場所だったのです。

「引っ越して落ち着いてから来てください」と言われていたこともあって、数日行かないでいたところ、他のスタッフが「もう、ぞうさんの目やリボンの材料がなくなるほど、たくさん作っておられて、のっぺらぼうのぞうさんがいっぱいになっていますよ、増島さん 早く行かないと!」と言ってくれました。そこで行ってみると、ほんとうに、ぞうさんが箱にいっぱいになっていました。それぐらい、なにもすることがなかったのでした。その後、材料も持って行きました。

まけないぞうにあって作ることの楽しみに出会ったと言って、今でもたくさんのぞうさんを作っていただいています。

大槌町赤浜地区では、ビルの上に遊覧船「はまゆり」が乗っかった映像がマスコミでもよく紹介されていました。

この地区の小学校の体育館からは、目の前に瓦礫が一面に広がっています。役場の付近はだんだんと瓦礫の片付けが進んでいた5月に入っても、奥のほうではまだまだ瓦礫を毎日見ながらの生活が続いていたのです。

(おばあちゃんが横たわって笑い転げている写真)

そんななかでも、ぞうさんを作っていると顔がゆがんだり、耳が対象じゃなくなることがあります。

このおばあちゃんがつくったぞうさんは、鼻さきから糸が出て鼻毛みたいになってしまいました。

もう笑い転げて倒れてしまったのです。

・・・目の前はあんな被災地が広がっているのですが、ぞうさんを夢中になってつくることで笑いが出ていました。

(げらげら笑っている写真)

この方の作ったぞうさんが、鼻が長くなって、アリクイみたいになってしまったのです。

ゲラゲラ笑っています。ご飯当番の合間をぬってぞうさんを縫っていました。

(村井さんの横の女性)

この方は美容師さんだった方で、津波で何もかも流されたのですが、村井さんがこの人に教えてもらってぞうさんをつくれるようになりました。村井さんは靴職人だったので、ぼちぼち上手につくっていました。

(ちくわをもっている写真)

ボランテイアさんたちといっしょに、ぞうさんを作り終わって、おなかがすいたからおやつ食べようーと言って、ちくわを持ってきたのです。そうしたら、「ちくわとぞうさんの鼻がどちらが長いか」とか、おばあちゃんたちが下ネタとかを出して笑っていました。

「鼻をまげたほうがかわいい」と言って鼻を曲げたぞうさんを夢中になって作っている方もあったり・・・。

ほんとうに不思議ですが、鼻ができて、目をつけて・・・ぞうさんができると自然に笑顔になるのです。「できた〜!!」と笑顔が出て、私もほっとするのです。

こんなふうに、私も被災した方々から元気をもらえているから、続けてこられたのです。

(吉里吉里旧中学校の体育館避難所でのまけないぞう作りの様子 写真)

(石碑の写真)

三陸沿岸には昭和と明治に立てられた200〜300の石碑があります。「地震があったら津波に用心」、「高いところに逃げよ。危険地帯に住居するな」とちゃんと書いてあるのです。

今回の震災で石碑より下につくった家は津波にやられてしまい、これより上は大丈夫だったということがありました。やはり昔の人が教訓を残しているのですが、やはりそのような過去の教訓を、これから本気で考えていかなければということを示しています。

でも災害はどうしても、「喉元過ぎれば」忘れてしまうのですね。若い世代はどんどん沿岸のほうに住むようになって、犠牲になってしまったのです。

チリの地震のときにも津波被害があり、それを経験している70代以上の人は津波がきたらすぐに逃げて助かったのですが、津波がくるまで30分あったので戻ってしまった人や車で逃げようとした人は犠牲になったということがありました。

(「見て見て〜」と言っている写真)

洗濯物干しているのかと思ったら、ぞうさんがたくさんぶらさがっているのです。

この左の方も、仮設住宅に移って「頭ががんがんする」と言って、久しぶりに会ったら体調を崩していました。「久しぶりだから、またぞうさんつくってくださいよ」と話して、1週間後に行ってみましたら、作り始めてすこし顔色がよくなっていました。

仮設住宅で集会場を使って「ぞうさん」の講習をしています。

岩盤を削った上にるところに仮設住宅が建っていたりします。

(仮設住宅の写真)

ようやくアスファルト舗装されましたが、そのまえは舗装がされていなくて、はじめは砂利で年寄りがつまづいて転倒し、顔面が血だらけなどということもあり、ずっと言っていましたら、やっと舗装してもらえました。

集会所のない仮設では、外にテントを張ってぞうさんづくりをやっています。

足湯とぞうさん作りと、両方やったりしています。

高田の被災者の方と気仙沼の方同士で交流して、ぞうさんの作り方を教え合ったりもしています。

地元の材料をつかった木造の仮設もできています。仮設の期間が終わったあとにも再利用できる住宅です。地元の材料を使って、地元の大工さんたちが建てて、大手プレハブメーカーの住宅よりも50万、100万ぐらい安く建てられるのです。ここは通りすぎるだけで杉のかおりがします。

(ぞうさんができたときにチュッとしている方の写真)

この方は、大船渡の19戸しかない仮設にお住まいの方です。初めて行ったときにぞうさんをつくったら、よほど嬉しかったらしく、「ちゅっ」とキッスしてくれました。その後もずっと毎週行っているのですが、この方もずっと続けて作ってくれています。(注3)

そのうち、皆さんの手にぞうさんが届くかもしれません。

こんなふうに被災地では今、ぞうさんづくりがひろがっています。

<終>

****** 質疑応答 ******

質問:若い人たちがたくさん手伝いに来ておられるようですが、どのような人たちなのでしょうか?

増島:    まごころネットに300人くらいのボランテイアが集まっておられます。夏休みシーズンは学生さんが多かったです。遠野のまごころネットは個人、団体問わず受け入れ。大学がボアンティアを募って団体で来たりします。一緒にぞうさんづくりにまわったりしています。

質問:3月27日に拠点を遠野に置かれたということですが、増島さんはそのあとずっと現地におられるのですか?

増島:    3月27日から2週間遠野にいて、「遠野まごころネット」の立ち上げを一緒にさせてもらいました。2週間後にいったん神戸にもどって、岩手に行く準備をして、本格的に入ったのが5月末。それからずっと岩手にいます。

今日、この講演会にお招きいただいたのと大阪に行く機会があったので、戻ってきました。

冬のあいだ遠野はとても寒くなる、マイナス15度くらいになるということなので、車などなど、冬の準備のために帰って来ています。また明日から岩手に入ります。

質問:この、最後の まけないぞうに「ちゅっ」としている方の写真は、ほんとうに感動的ですね。実は、7月に「まけないぞう」のことを取材してニュースにした我謝さんの友人で現在ニューヨーク在住、ご実家が兵庫の方が、まけないぞうに賛同し、帰国した機会に「被災地NGO恊働センター」へ直接訪ねて行ったということでした。そして、そのご主人であるJohn C. Stepperさんもブログに「まけないぞう」のことを書いてくださって、この写真を載せていました(注4)。この写真は世界中に通じるような祈りの気持ちがあらわれていますね、この方の「まけないぞう うまく作れるかな・・・あっ うまくできた!」という安堵感と不安感。泣きそうな笑顔。とてもいい写真ですね。

増島:    一緒に行ったボランティアの子が撮影した写真なんですよ。また今度、土曜日にこの方たちに会いに行くんです。

質問:まけないぞうを買いたい人はどうするのですか?

増島:    インターネットで被災地NGO恊働センターのHPからメールで、電話やファックスでも可能です。(注5)

今までわたしたちが関わった中越でも神戸でもぞうさんを作ってくれています。東北を応援しようということで、岩手の作り手さんだけでなく、神戸、中越、宮城などが混ざっています。一緒に応援してもらっています。岩手産だけに限っていません。

NHKの「朝いち」に出たために、すごい反応をいただいて、いま3000個も注文をいただいてしまって、神戸から「ぞうさんの増産をお願いします」(笑)といわれていて、岩手に帰ったら増産をお願いしなくちゃならないのですけど・・・(笑)。

質問:材料のタオルはどうしているのですか?

増島:    「1本のタオル運動」ということで、神戸に一度集約しています。神戸の震災のときに被災した企業で、自分たちも何らかの支援がしたいという気持ちでやってくださっています(注6)。お仕事が終わった後に仕分けてくださって、被災地のほうに届く段階では、もうそのまま作り手さんのほうへ持って行かれるかたちになって届くのです。

質問:広報はネットなどで行っているのですか?

増島:  そうですね。正直、まだ作り手さんが少なくて岩手で12-3人なのです。あとは神戸などで応援しながら作っています。東北の人は遠慮がちなのかどうか、「内職として」とか「お金払いますから」というと、「そんなお金なんかいただけません・・・」という感じで、なかなかお金を受け取っていただけないのです。一人の方が製品になるくらいのぞうさんをつくるには1週間くらいかかるので、なかなか作り手さんが増えないのですが、神戸では100人くらいいたので、そこまで広げたいと思っています。そんなこともあって、まだ公にマスコミなどをつかっての広報はしていません。それなのにもう、こうしてご支援をいただいて軌道に乗り始めたら、大きな声で宣伝しようと思っています。

質問:作り手さんが全体で何人いるのでしょうか。

増島:    ちょっと全体では追いきれないところもあるのですが・・・米沢では40人にも満たないのです。米沢に避難されていてまた福島へ戻られた方が何人かおられますが、福島はまだ二桁にいかないぐらいだと思います。あとは宮城とか、栃木でも活動しているネットワークの団体があるのですが、そちらは独立してやっていてくださって、何人か・・・。少ないです。

質問:3000頭のオーダーは?

増島:    がんばります(笑)。

質問:東京のみなし仮設に入っている人もたくさんおられて、そこでもぞうさんを教えに来てくださいという要望があるのですが・・・。900名の方が入っておられる団地なのです。

増島:はい、是非そういうところに伺えるといいですね。

質問:  ぞうさんは全体で何頭ぐらいを作られたのでしょうか。

増島:    神戸から通算すると、15万頭以上になります。その当時は月に5千〜1万頭くらい作っていました。今回は遠慮されたり・・・東北は奥ゆかしい文化があって、なかなか「わたしはもう材料をもらったので、あちらの方にあげてください」と言われたりします。だんだんとわかってきたら、無理やり「お願いします」と材料を渡したりできるようにできると良いのですが・・・1週間に一度行くペースでほうぼうをまわっていても、なかなかまわりきれません。

質問:400円の内訳は?

増島:    100円が作り手さんに行きます。50円を基金にしています。残りが郵送費などになります。

質問:取りあえず、この冬に向けて、何が急がれるのでしょうか。

増島:    電気毛布、こたつや電気カーペットなど、一家に一台ぐらいを配布できないかと検討しています。湯たんぽを配っている団体もあります。被災地の方たちに必要なものを聞いたりしています。3.11のときに集めた冬用衣料があるので、それを3。11の後に余剰にあるものをみる。先日、順次仮設住宅を二重サッシにの断熱工事は終わりつつある。沿岸は遠野よりも暖かく、日本海側ではないので雪が降っても積もらないそうです。

*********
青木:本日は、誠にありがとうございました。

7月に岩手のほうへ伺って、増島さんの働いておられるところを一緒に見せていただいて、まけないぞうづくりにも少しだけですが参加させてもらいました。今、被災地に「支援が必要」なのですが、何より必要なのは増島さんのような方なのだと思います。
増島さんは被災された方々のところをまわって歩いて、その方がいま、どの段階にあるのかということを誰よりもよく知っておられました。何もかも流されて、家族を喪った方々に、すぐに「まけないぞうを作りましょう」と声をかけたとしても、そんなにすぐに作れるようにはならないのは当然です。いくつもの段階を経て「それじゃ やってみようか」となるまで増島さんが寄り添って、それぞれの方の出すサインをちゃんと受け止めておられる。そういうことが、そんじょそこらの医者よりもずっとできる増島さんの姿を見て、非常に感銘を受けたのです。東京にぜひお呼びして、皆さんにも話を聞いていただきたいと思い、今日の講演会を開催いたしました。
「まけないぞう」の金額に現れない、ほんとうの意味は、増島さんと被災者の方が出会うための究極のツールだというところにあると思います。このツールがあることによって、増島さんのような災害ボランテイアと被災された方々が出会うことができるのですね。

95年の阪神淡路大震災のときに、災害ボランテイアとして現地に入って活動したことが、わたしの人生を変えるほどの大きな意味を持つ出来事だったのですが、今回の東日本大震災被害は、そのときとは比べものにならないほど広範囲、甚大なものです。また、東京にいる私たちにも、もうひとつの放射線災害が毎日毎日、忍び寄ってきています。この難局をどうやって乗り越えて行かれるのだろうか。私たちは自分たちでいっぱいいっぱいになっていってしまうのかもしれない。

増島さんのような災害ボランティアの方々がいてくださって、小さな光を灯してくださること。気の遠くなるような長い時間がかかったとしても、いつかはその小さな光が集まって大きな太陽に見えるときが来るだろうか。
私は、7月に岩手に行って、増島さんのように被災者の方々を支援しているプロの災害ボランテイアの方たちを、私たちが支援しなければならないのだということに初めて気づいたのです。まけないぞうを通して、そのことをお伝えしたいなと思います。
ひと回り以上も年齢の違う増島さんですが、素晴らしいお仕事をしておられる方です。本日は、ほんとうにありがとうございました。

*****

注1 「遠野まごころネット」HP http://tonomagokoro.net/      Facebookページ http://www.facebook.com/tonomagokoronet

注2 被災地NGO恊働センター HP http://www.pure.ne.jp/~ngo/  Facebookページ

注3 まけないぞう 作り手さんの声 こちらからも見られます。(被災地NGO恊働センター 東日本大震災救援レポート)

注5 青木クリニックの「まけないぞうステーション」でもお分けしています。

注6 CHIMEI  INNOLUX  TPOディスプレイズジャパン株式会社の「タオル仕分け隊」の方々です。ここをご覧ください。


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