2015.6.15

2015年6月15日 月曜日

この週末、大学時代の外科の恩師が亡くなった。

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麻酔医として一人で当直をし始めた30年前、第一外科の教授から緊急手術の依頼があった。
その患者さんはそれまでにも何度も手術をし、ICUで命をつないでいる患者さんだった。
緊急手術になったのは、腹部のどこからか出血をしていて、それを止める為の緊急措置だった。
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麻酔医はその手術場では、患者さんのバイタルサインをチェックし、常に手術のリクスに対して瞬時に現状を把握し、患者さんの命を徹底的に守る義務がある。その為には、手術の進行を止める権限がある。手術を司る権限だ。
例えば、余りにも出血が多かったりした場合には、執刀医に対してストップをかけるのは麻酔医の役目だ。
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第一外科の信田教授の開腹手術は、確か22時頃に始まった。そこから4〜5時間が経過しても、腹部の出血部位は確認できず相変わらず出血は続いていた。
輸血は信じられない速度で注入し、それでも足りなくて真夜中に看護師寮に掛け合って輸血を募った。それで6〜7000mlほど輸血を入れたのではなかっただろうか。
研修医だった私は無我夢中でポンピングといって急速輸血に追われていた。
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身体中の血液を2〜3回全部替えるほどの量の輸血は、今でももちろん30年前もご法度に近かった。それでも輸血を止める訳にはいかなかった。
それでも輸血パックが残り2本になった時、半ば放心状態になっている研修医は、父親ほどの歳の教授である執刀医にこう告げた。
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「輸血が残り僅かになりました。手術を中止にしてください」
「はい、分かりました。今から閉腹します。」
執刀医は即座に答え、腹部を閉める作業に入った。
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その後、その患者さんは何度かの手術を経て、不幸な転帰を辿ったと聞いた。
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時として、手術室は修羅場になる。しかし、その修羅場は患者さんの命を守ろうとする医師たちのこの上なく真剣な、こう言ってよければ燃え盛る命のやり取りの場である。
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そうして手術場で麻酔医は、最終的な判断を下す権限を与えられている。
執刀医が外科の教授で麻酔医が研修医であっても、麻酔医の権限は変わらない。
手術場での原則は変わることがない。命を守るというのは、そういうことなのだ。
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手術場の大原則を若い研修医に自ら教えてくれた、信田教授が亡くなった。
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ところで・・・
どの世界にも原則というものがある。大きな決まりごとがある。
それをどうしても守らなければ、人間社会が根底からくつがえってしまうものがある。それが法治国家に於ける法であり、法を立法できる立場の権力者を縛るために憲法がある。
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時の政権が閣議に於いて決めた集団的自衛権行使の決定は、日本国憲法に照らしてみて、これは違憲であることは間違いない。
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おそらく、内閣の面々はマスコミと懇ろになり服従させ、この法案を通すためにだまし討ちのような昨年末の解散総選挙で安定多数を取っても尚、集団的自衛権行使を言明することにビビっていたに違いない。
彼らはバカじゃない。自分たちがどれほどの暴挙に出ているのか知っている。しかし、世論さえ黙っていれば、暴挙が快挙と錯覚を起こし快感に変わっていったのだろう。
それで立憲主義国家としての自分たちの立場を、つい棚に上げ数の力でぶっちぎろうとしているのだが、ここに立ちはだかったのが主義主張を超えた憲法の原則であった。
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先々週の憲法審査会に呼ばれた3人の憲法学者が、揃ってこれを違憲であると言明してから、安保関連法案の審議の流れが変わった。
憲法学者たちはその立場を超えて、現憲法下では集団的自衛権行使は整合性が無いとの立場で一致して、大原則を唱えだした。
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解釈改憲に因り集団的自衛権行使を認めれば、全ての法が法的安定性に欠けてしまう。拠ってこれを認めることはできない、というのは立憲主義国家の大原則なのだ。
それは30年前に第一外科の信田教授に教えもらった手術室の大原則と、まったく同じなのではないか。命を守るための大原則はどんな事があっても守らなければならない・・・ふと思った梅雨の夜だ。

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