大正関東地震2

2011年9月2日 金曜日

この日、関東では弱い台風から吹き込む雨が収まっていたところでした。この台風は本州を通過して能登半島の上空にさしかかる頃のこと、東京では台風から吹き込まれる東南の強風が吹いていました。
その時、相模湾沖で異変は起こり始めました。
東京市内の中央気象台では、開闢以来の強い地震で、全ての地震計の針が破壊されたのでした。

この日は土曜で仕事は半ドン(午前中で終了)の、給料日でした。大正時代は月給ではなく、給料は週給で支払われることが多かったのです。
家々では昼げの支度でかまどを炊いている家が多く、土曜の給料日で浅草などの繁華街も大変混み合っていました。そこに起こったのが関東大震災でした。

家屋の倒壊などは横浜市の被害の方が大きかったのですが、この地震では東京の繁華街や下町の本所区被服廠跡に避難した3万人の人々が火災旋風に煽られて死亡したり、大火災が起こって次々に隅田川に飛び込んだ件などが長らく語り継がれているのはご存じの通りです。

また、この地震直後から「大津波がくるぞ」とか「富士山が大噴火するぞ」とか「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などという流言飛語が流れて、たいへんに人心が乱れたことも今日まで語り継がれています。

これらの流言飛語は、震災当時の情報の欠如がもたらした「人災」だといえましょう。当時の市民の情報源は新聞でした。ラジオは試験放送中の時代でありました。
実際に伊豆半島などで10mほどの津波は発生しましたが、富士山の大噴火はありませんでした。
関東大震災の前1910年に朝鮮半島を併合を果たし、朝鮮人に強制労働を強いていた社会の中で起こった地震でした。日韓に感情的な敵対心があったことは確かな事でしょう。しかし、流言飛語の内容は、全くの根も葉もないものでした。

それでは、どうしてそれほどの流言飛語が起こってしまったのでしょうか。理由は震災に因って東京では16社あった新聞社が全て被災し、うち13社は焼失、残る3社も輪転機が回せない状況になっていたのです。
それゆえに東京以外の新聞社が間違った報道を流してしまい、これが瞬く間に伝わって行ったのでした。つまり、「現場の情報が欠如していた」ために、間違った情報で煽動されていったのでした。
政府当局はこれを重くみ、9月3日には戒厳令を施行しました。ところがそれでも、流言飛語は全く収まりませんでした。

当時の東京の人口250万人横浜や郡部も合計して約400万人のうち、190万人が被災し10万人余りが死亡または行方不明となりました。東京や横浜では、凄まじい餓えが起こったといわれています。
このため政府は主に東北方面に被災者を疎開させる一方で、流言飛語によって朝鮮人を殺害する等の事件が多発し、ますます混乱を極める事態に際して、9月7日に緊急勅令を公布しました。
「 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件」です。これが後の「治安維持法」の前身の一つになった法律でした。


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