2014.4.4

2014年4月4日 金曜日

災害復興学の世界に身を置いて、8年ほどになる。

この間、日本の災害対応・災害復興の分野で最もすすんだものをたった一つあげろ、と言われれば、迷わずIPサイマルラジオの普及だと答える。ことに株式会社radikoの功績は、これまであまり語られずにき過ぎてしまったが、たいへん大なるものだといえよう。

わたしがIPサイマルラジオの存在を知ったのは、一体いつの頃だっただろうか。

古い時代のappleのパソコンには、全米のラジオを聴く事ができる今のiTunesの原型がついていた。だから、もう20年近く前のことだと思う。

東京でAMとFM局のIPサイマル放送の実験放送が始まったのが2010年春、本格運用が2010年12月1日からだった。

それでわたしは2010年12月にradikoの営業部に連絡を取った。

すると大変フットワークの良いスタッフの奥泉さんが、忽ちその日のうちに銀座のクリニックに来てくれた。

当時radikoは、関東4都県だけに向けて文化放送・ニッポン放送・TBSラジオ・FM Tokyo・J-wave・FM Yokohama・NACK5・bayFMの8局を流していたと思う。

radikoは以降、関西や中部・東北・中国などなどエリアを広げてゆこうとしていた。

しかしそれでも、radikoは聴き手がどのエリアに居るのかをIPアドレスで瞬時に判断して、聴き手のエリアの放送局にしかアクセスすることができない仕組みになっていた。

わたしは初対面の奥泉さんの顔を見るなり、ぜひとも大規模災害の時には、放送エリアを取っ払って被災地のみならず全国で放送を聴く事ができるようにして欲しい、と、そう願い出た。

すると、

「今の今まで防災という観点から考えたことがありませんでした。明日、会議がありますので早速、議題にかけます」とたいへん率直に話してくれた。

それが2010年の12月初旬のことだった。

その頃、わたしは関西学院大学災害復興研究所主宰のシンポジウムで、IPサイマルラジオの災害時利用について発表をした。

わたしの提案は「M7以上の地震災害があった時はIPサイマルラジオはエリアを取っ払って全国で聴取できるようにする」というものだった。

しかし会場に居た民放の人たちの反応はたいへんに冷ややかなものだった。

災害担当の民放テレビとラジオの、そう言ってよければ災害界ではビッグネームの二人から、「青木さんは民放の何たるかを知らなさ過ぎる」「エリアを広げたらローカルなCM収入が成立しないではないか、それは絶対にあり得ない」という反駁があった。

シンポジウムの会場ではこの案は全く相手にされなかったが、わたしにはどうしても諦めきれず、その後何人かのラジオ局の人々にオファーを続けた。

そんな中で、わたしの案にイの一番に乗ってくれたラジオ局のトップが居た。

大阪の毎日放送MBSラジオの熊和子さんだった。

MBSでは熊さんが立ち上げた番組「ネットワーク1・17」に何度か出して頂いたご縁があり、放送開始からパーソナリティをやっていた魚住由紀さんは長年の友人だった。それで、魚住さんが熊さんに上申してくれたのだった。

熊さんからのメールにはこうあった。

「阪神・淡路大震災の経験から、日本中のどの局も確実に初めの3日間は、ノー音楽ノーCMになります。だからうちは震災の発災の瞬間から、IPサイマルのエリアを必ず外しますよ」

この返事をもらった時、正直、涙が出た。

それから2ヶ月ほど経った2011年の3月11日の14時46分、東京も揺れに揺れた。クリニックでは慌ててradikoのアプリを立ち上げて、ニッポン放送を聞いた。

その時間帯は知人の上柳昌彦さんが生放送の 真っただ中だった。震災の前からニッポン放送の防災パーソナリティーだった上柳さんは、恐らくはとても慌てながらも誰よりも強い使命感で、出来る限り冷静に生放送をしていたに違いない。

上ちゃんの放送のおかげで、どれほどの人々が精神的に助かっただろうか。

東京はビルが多くてAM波が入らない。だからこそのIPサイマルラジオなのだが、考えてみればあの日、東京ではネット環境が一度も途切れることはなかったおかげで、わたしはどうにか精神を正常域に保つことが出来たし、その最も大きな要因はradiko とTwittreだったと言っても過言ではなかった。

そうして2011年3月13日の夕方、神戸の魚住さんから一本の電話が入った。

「これから間もなく、エリアが取っ払われることになったわよ」

「え?MBSの?」

「ううん。radikoのエリアが全部取っ払われるのよ。青木さんの提唱通りになったのよ」

わたしはこの時も、涙が溢れて止まらなかった。

福島第一原発由来の線量が、関東地方でぐんぐん上がりはじめて、ひじょうに心細かった13日の夕方、ポッと心に明かりが灯ったようになった。

さらにradikoは震災後ひと月ほどして、東北エリアの7局を「災害復興radiko」として、全国で聴くことができるようにしていた。これは約一年間ほど続いたと思う。

福島からはラジオ福島が参加していたので、全国に避難をした方々が福島のラジオを聴くことができたということは、大変に大きなことだったに違いない。

確かに、ネットで被災地のラジオが聴くことが出来る、という事自体があまり知られていなかったことは否定出来ない事実ではあるのだが、欲しい情報を取りたい人にはradikoというツールは本当に有り難かった。

さて、2014年4月1日、このIPサイマルラジオに画期的な日が訪れていた。

全国のエリアが取っ払われて、北海道から九州沖縄エリアまでの放送がIPサイマルラジオで聴くことができるようになったのだ。

ただし、全てのエリアを聴くためには月額350円かかるのだが・・・この金額は決して高くはない。

気がつけば、長々とradikoについて書いてきてしまった。

4日にひょんなことから、久しぶりに奥泉さんと電話で話をして、二人で多いに盛り上がったとともに、この間のことをお互がお互いに感謝していることが分かり、その気持ちを伝え合ったのだった。

考えてみれば、2010年のあの12月に奥泉さんが飛んで来てくれなければ、今日の全エリア撤廃ということが、もっと遅れてしまったかもしれない。

radikoは商業放送の放送局を束ねながら、情熱をもって本当によくやってきたと思う。

                *****

ここのところ環太平洋で大きな地震が、太平洋プレート境界上で起こっている。

日本付近では三陸沖・宮城沖・福島〜房総半島沖まで、M5~6クラスの地震が増えている。

それと同時に、中央構造線沿いの地震も実に多い。その果てには、南海トラフ地震の可能性がある。

今もまだ、この国はいつ大災害が起こっても全くおかしくない状況にある。

その時、地元のラジオ局がどれだけ大切な存在かがわかるものだ。

テレビよりもよく訓練されたアナウンサーが、しっかりとした情報を瞬時に伝えることができるのがラジオなのだ。

残念ながらIPサイマルラジオは、光ファイバーが切れた地域では聴くことができない。

従って、大被害を被った地域では、数日間は恐らく聴くことができないだろう。

発災から72時間に限っていえば、インフラが通じている地域に対して、被災地からの情報を流す、つまり被災地の情報を非被災地に伝えるということが主になるだろう。

その後、インフラが回復し次第、または避難所に防災の一環として確固たるインターネットインフラがあれば、そこでradikoにアクセスできるようになるはずだ。

技術的な改良の余地はまだまだ多々あろうと思うが、ともあれこの国にはIPサイマルラジオがしっかりと稼働していて、そこには奥泉さんを始めとしたスタッフがいるというだけで、何か少し救われる気がする夜である。

ここまで読んで下さったみなさん。

radikoプレミアム、ぜひとも今のうちに加入して欲しく思います。

災害は忘れないうちに必ずやってくる。その時一番大事なものは、正確な情報と水である。人間は情報と水だけで10日は生きてゆけるものだ。

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