2014.1.13

2014年1月13日 月曜日

関西学院大学の災害復興制度研究所のシンポジウムを終えて帰宅した。

毎年毎年、このシンポジウムを企画し主催している山中茂樹教授には頭が下がる。

と同時に、このシンポジウムに集う、神戸を始めとして中越、そうして東北の災害復興の現場の面々が本当に素晴らしい。

 

今後この国が迎える南海トラフ地震の時も、首都直下地震の時も、今までがそうであったように、この研究所に集った面々が最大限の知恵を出して災害復興を担ってゆくことだろう。

 

一日目の円卓会議で、子ども・被災者支援法が33市町村に限定されてしまった現実にほぞを噛んでいる場合ではなく、「来るべきアウトブレイク」に対して、現行の健康保険制度を遺憾なく使うべきだという話をした。

 

関学には、色々なメンバーが揃っている。法律家、経済学者、社会学者、文化人類学者、歴史学者、ジャーナリスト等々。

そうしてその誰もが、かつては自分が被災者だった、あるいは被災地に暮らしている人々なのだ。震災を経験し、その経験から学び、社会を動かし法律を作ってきた人々なのだ。

 

だからこの関学のシンポジウムは、わたしには「知の集積回路の中心部」だと思っている。ここの面々に何らかの意見を投げておくと、それがやがて醗酵して熟成して、いざという時にものすごい知恵が出てくるからだ。

 

「どんな素晴らしい法律を作っても、その国の財政を上回るような規模では決して運用できない。だからこそ現行の健康保険制度を使い、そのつど法改正も視野に入れ医師・法律家・保険医協会などがタッグを組んで、最前線の医師が孤立しないようなネットワークを構築しようではないか」

「日本の国民医療費が約40兆円。一ヶ月3兆円以上の規模の医療費の請求(レセプト)が今はオンラインで動いている。大災害があった時には、このビッグデーターから直近の患者情報を取り出すことができることを知っていて欲しい。レセプトは患者本人の開示請求で情報開示が可能なデーターなのである。緊急時にこれを使わない手はない」

 

この2つのことを発表して、一日目は終わった。早速に津久井進弁護士がわたしの意をすくい取ってくれた。これで任務完了。彼の脳みそに少しでも足跡が残れば、上々なのだ。

夕方からの交流会は楽しい会になった。医療研究班の皆さんとも一年間、研究会を共にしてのお疲れさま会にもなった。

 

2日目のシンポジウムの基調講演は、東北学院大学の佐々木俊三先生。「哀傷(かなしみ)と餐応(ふるまい)——震災が開示した問いについて——」、この講演にたいへん感銘を受けた。

 

わたしたち人間は母乳を飲んで、つまり母の身体を食べて成長をしてゆくものだ。

津波で一家がバラバラに逃げた青年が丘の上から、逃げ遅れた母を見つけて声を限りに叫んだ。母は青年に「しっかり生きてゆくんだよ」と叫んで黒い津波に飲み込まれて行った。

人とは死に行く自分の絶望の未来ではなく、他者である子どもの未来に希望を託して、声をかけることができるものなのだ。

 

聴きながら涙が出た。

94年に母が死ぬる前に、彼女はわたしに言った。

「どんなことがあっても、生きてゆくのよ。必ず生きてゆくのよ」

 

あれから、間もなく、阪神・淡路大震災があって、わたしは現地に入った。

母の死や諸々のことにうちひしがれながら、そういう今から思えば取るに足りない事なのだが、それまでの人生で最悪な時期に被災地に入ったのだった。

その後のことは、もうよく覚えていないのだが、以来、わたしは災害復興の世界に引き込まれ、今を迎えることとなった。そんな事を、ふと思い出した。

大災害の時代に生まれ合わせたからこそ慮れることもあるのだ、ということを改めて思った成人の日だ。

 

さて、と。

今夜は少し早くに眠ろう。

 


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