2013.10.6

2013年10月6日 日曜日

広島の日弁連の人権擁護大会から帰ってきて、昨晩は雨のそぼ降る中、東京保険医協会の主催の、東京大学の児玉龍彦医師の除染についての講演会へ。
児玉氏といえば、かなり早い段階で福島の南相馬の除染に現地に入っておられ、今も続けておられ、2011年の国会で「国の対策が余りにも遅い」と、怒りの演説をしたことでつとに知られるようになった元々は癌治療のアイソトープの専門家だ。

90分ほど6〜70人の医師たち共に講演を聴いていて、正直ものすごく不思議な気分になったのだった。
児玉氏のような最先端を走る学者が、低線量被ばくの話をするとき、そこには第一線の学者ならではの統計学が基礎を成して話が進む。

つまり「統計学的に優位」であると判断するに至までには、出来る限り大きな母体数でプロスペクティブ(前向きな)調査が丁寧に行われることが前提となる。厳密なる結果が欲しければ全体数をプロスペクティブに追いかけるにこした事はない……それはそれで、恐ろしく正しい論理であると思う。
そうして、その説明に対して、会場の殆どの医師が頷く。
「レトロスペクティブな調査は手軽ではあるがあまり信憑性がありません」
「福島には科学の英知を集めて…」「科学的に解析して…」「科学者として…」という言葉に、会場の医師たちはいちいち大きく頷くのだ。

けれどもけれども、私たちは最先端の学者ではない。国際的な学術誌に何かの論文を書こうとしている訳ではない。たった今、私たち医師に求められているのは、時間を掛けて丁寧にプロスペクティブに調査して得られる「遠い未来結果」なのだろうか?

児玉氏は今チェルノブイリで起こっていると思われることは、「レトロスペクティブな調査の結果だから信憑性がない」とは一言も言われはしなかったが……。

わたしの書き方の歯切れが悪いのは、わたし自身が一瞬、分からなくなってしまったからなのだ。
前日まで広島で使っていた脳と、恐らく全く違う脳を使わないといけないような時空に出くわして、少し混乱をしてしまったのかもしれない。

えっと、「原発事故子ども・被災者支援法」には、その前提として、放射線の健康への影響が充分解明されていない状況において、予防原則に則って不必要な被ばくを回避することは、全ての国民に等しく認められる権利である」という前提で成り立っている。

つまり、「これから十分に解明してゆくためにプロスペクティブな調査を待てない。だから敢えて不確かであっても予防原則に則ってゆこう」という立場をわたしは取りたいのだが、児玉医師の講演会の雰囲気はそうではなかった。

わたしは医師は科学者であると思っている。紛いもなくサイエンティストだと思う。
けれども、今から起こることを解明してゆくために丁寧なプロスペクティブな調査の必要性を是認しつつも、その結果を待てない。だから敢えて不確かであっても予防原則に則ってゆく、という立場の共存は充分に「アリ」だと思うのだ。

誰がどんな方向から見ても間違いのない真実の統計結果を、今の私たちは待っている時間はない。それにそれは一部の専門の学者に任せて、最前線の医師はもっと予防原則に則って、子どもたち・被災者たち・この国に暮らす人々に寄り添っていかなくてはならないのではないだろうか。それこそが第一線の医師の勤めなのではないか、と、改めて思った晩だ。
          


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