ドクター青木のぞうさん日記

makenaizone主宰の青木正美が、自分の生活の中でできるボランティアとは何かを考え、実行してみよう、そんな四方山話を綴ります。
Dr Aoki's Prescription...

2013.5.17

2013年5月17日 金曜日

遠雷やチェルノブイリの消防碑
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2013.5.16

2013年5月16日 木曜日

ウクライナ最後の行程は、チェルイブイリ原発へ。
その3kmの所にあったプリピャチという廃墟の町も含めて見学してきた。

昨日、一昨日のコロステンの印象の方が強く、正直いってチェルノブイリ原発には殆ど感想はない。
こんな馬鹿げた人類の歴史はもうやめよう、と言うぐらいか。
27年経っても、何も終わっていないチェルノブイリ。

このチェルノブイリの悲劇の歴史から何も学ばなかった私たちの国は、安全神話という恥ずかしい絵空事を無責任にも信じ込み、押しつけ、走ってきてしまったのだ。
しかし、もう止めようではないか。この馬鹿馬鹿しい人類の歴史にピリオドを打とうではないか。

それとはまた別次元で、わたしたちの国は、もっとしっかりとした被災者救済をしなくてはならない。
27年前のソビエトにできて、今の日本にできないことが沢山あったことを知ってしまった。

そう。この目で見てきた、聞いてきたことを、これから東京に帰って活かさねばならないと、心は逸る。明け方の便で帰国の予定だ。

写真は4号機展望台から、撮影禁止の4号機がなぜが偶然に写ってしまったなり。
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2013.5.15

2013年5月15日 水曜日

コロステン2日目。

朝一番で市場へ。
その後、第12学校へ。
その後、家庭訪問。

わたしは昨秋に放映されたNHKのチェルノブイリの番組を観て、どうしてもウクライナに行かなくてはと強く思ってきた。
同じ事を、このツアーを企画した日弁連の人たちも感じたのだという。

そんな訳で、感じるところがたいへん多い旅となった。
夕方、キエフに戻ってきた。

明日わたしたちは、チェルノブイリに発つ。
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2013.5.14

2013年5月14日 火曜日

チェルノブイリから西に110kmのコロステン市(人口6万人)に来ている。
この町で、ほんとうに長らく臨床医をしているザイエツ医師にお会いしてお話を伺う事ができた。
あのNHKの衝撃のドキュメンタリーで、警告をされておられたドクターだ。
本当に余りにも大きな収穫があった。
明日もまた、コロステンの市場と小学校と家庭訪問が待っている。

東京に帰りついたら、しっかりまとめようと思う。
こんやは遅くまで全国から集まった日弁連のメンバーたちと部屋のみ会。青木はお茶でディープな話をばおつきあい(°_°)
さて、これから自分にとって初めての毛布なし布団なし&カバーありの、見た事もないおもちゃのようなベッドに寝るとする。
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2013.5.13

2013年5月13日 月曜日

そもそも、わたしがどうしてもチェルノブイリとりわけキエフに行きたいと思ってきたのかというと、チェルノブイリには日本の25年後があるとずっと思い続けてきたからだ。
原発震災のことを考えると、どの方向から歩いていっても、必ずチェルノブイリに辿り着く。そのぐらいあの事故と、あの事故への国の対処は、福島の事故の模範になっている。模範というのもおかしいのけれども。

国は事故を過小評価し、隠蔽したかった。世界に事故のことが知らされたのは、1986年4月29日のキエフの新聞の3面に小さく記事が載った。そうして7時間の時差があっての4月29日のニューヨークタイムズの一面に、放射能雲の流れの地図が載って、全世界にこの事故の知るところとなったのだ。
もちろん27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所の従業員が、自身の外部被爆が放射線管理で引っかかり、この事故に気づくのだが……。


ところで、チェルオブイリ原発から3キロのところに、プリピァチという町があった。今日の朝この町からキエフに避難した人たちが作っているNPOの方々のお話を伺った。恐ろしく良くできる日本人の通訳も入れてだが、私たち一行16人とNPOの方々7〜8人との会談は3時間を超えたものとなった。

わたしが一番聞きたかったのは、医療のことについてだ。特に直後の医療体制がどうだったのかをどうしても聞きたかった。
もしかしたら順番が逆だったのかもしれないが、午後からは「チェルノブイリ博物館」に行った。
ここでプリピァチの町のデータを知り、わたしは立ち尽くしたのだった。

人口が50000人、うち子どもが17000人。年間1000人の新生児が誕生していた。つまり月に80以上のお産があったのだ。町の平均年齢は26歳。
そうしてプリピァチの町のビデオが流れていた。いわゆるホワイトカラーの家庭の人々の暮らし。1986年あたりでは、世界でも裕福な暮らしぶりだった。東ヨーロッパではピカイチの生活水準だったのだろう。
それが一転して、4月27日には1時間で荷物をまとめるようにとの指示があって、1200台のバスと、1500座席の列車3台に積み込まれて避難の旅立ちをしたのだった。

こういう状況の中をたった一時間で荷造りをして、3日で帰れると言われてプリピァチから逃げてきた方々から話を伺ったのだ。

というところで、朝は9時から地下鉄やトンでもなバスでの移動、極めつけは1.5kmで高低差がめっちゃくちゃある(何と言ってもケーブルカーが通っている山なのだ)を上るというおまけまでついて、もうこれ以上は今夜は無理だと思われ……おやすみなさい!
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