無力感を抱きしめて

2012年4月12日 木曜日

4月12日 22:22
先週の今頃、わたしは無力感について記した。

それが思いがけず、たくさんの方々の目に触れることとなった。

さらに思いがけず、たくさんの方々がわたしの言葉に頷いてくださったように思った。

それは、専門家でなくとも多くの方々がわたしと同じような無力感を、あの時から感じていたということだったのではないか。

たくさんの方々に背中を押してもらって、わたしはこの一週間、今まで自分で自分に蓋をしてきた無力感に、とことんつきあう事にした。わたしの無力感はいつから始まったのかを、お話ししようと思う。

 

2007年8月24日、神戸で原発震災についてのシンポジウムが行われた。わたしのたっての希望で地震学の石橋克彦氏(神戸大学名誉教授)とシンポジウムをご一緒させて頂いたのだった。

無事に終わって打ち上げの席でのことだ。

国の備えの甘さについて石橋先生と話をするうち、わたしは最悪のシナリオを作りたいので、ぜひ相談に乗って頂けないかと申し出た。すると石橋先生はわたしの目を見てこういわれた。

 

「青木さんは、東海地震が今のままで来れば、どのくらいでこの国が終わると思いますか」

「3日、ぐらいでしょうか」

「うん、僕は一晩だと思っている。だからせめて浜岡原発を止めなくてはならないんです」

 

わたしの無力感は、だから、キッカリこの時から始まったのだ。

それ以来、石橋克彦氏には大きな相談には乗って頂いていて、氏はわたしの心の師であり、同時にわたしの死神でもある。石橋氏は恐らく、311のあと、この国で最も大きな無力感を感じた人の一人だったに違いない。

 

 

わ たしはこの一週間、原子力工学の学者や建築家や漁業者や農業者や法律家や子どもを持つお母さんや小さな孫のいる方や役者や医療者など、いろいろな方々にわ たしの無力感について話をしてみた。みなさんも、怖くてなるべく考えないようにしてきたのだと言われたことが、強く印象に残っている。

 

ところで、本当の「知性」というのは何だろうか。本当の知性とは、想像力であるとわたしは思う。

と するならば、たった今福島で起こっていること——福島第一原発の事故によって、福島の方々が、どれぼど苦しみを抱えて暮らしておられるのか——について、 わたしたちはもっと真剣に向き合わなければと思うのだ。もっともっと真剣に想像をしてみることが必要なのではないだろうか。

そうして福島の苦しみを自分に引き寄せて考えたとき、わたしたちに残された結論は、他にないのではないだろうか。

福島の方々は、私たちよりもずっと、原発震災はもうまっぴらごめんだと思っているし、自分たちのことばかりか、この国の未来を真剣に考えようとしておられるように思うのだ。あれほどたいへんな暮らしの中で。

 

長くなってしまった。福島第一原発では4号機の燃料プールがだいへん危ない状況がが続いている。とはいえ、浜岡原発の3・4・5号機の燃料プールが、今この国では一番危険であることは、残念ながら疑いの余地が無い。

そのことをわたしに教えてくれたのも、福島の事故だった。

これからも、わたしはこの大きな無力感を抱きしめながら、福島とは何だっとのかを、考えてみようとおもっている。

—–
—– Facebookでのコメント、意見交換を以下に再録いたします。


H    青木先生、おはようございます。すぐさま行動に結びつかなくとも、社会が抱えている課題について、その因果について、解決法について、他人任せにしないで、考えることが大切なのですね。 4月13日 0:08
Y  簡単にいいえ!では答えられない、重たい課題ですね。4月13日 0:50
青木 正美 H先生、お早うございます。やはり何とか残したく思います、この美しい国を。 4月13日 2:38
青木 正美  Yさん、どうすればいいのか考えると、無力感に押しつぶされそうになります。4月13日 2:39
Y  でも、ぼく流に考えると、やめさせないかんことは、やめさせなくては。無力感と諦めとは違うような気がします。無力感は抱きながらも決して諦めない!かな  4月13日 2:41
青木 正美 もちろんです!ジュリーだって頑張ってますもの!4月13日 2:45
Y ジュリーィィ~(樹木希林風に)ですよね。4月13日 2:48
H 私たちは得てして身の回りのこと、自分の関心事以外に考えや思いが及ばないことがあります。身近な人に対しても、「あっ、あの時はああしてほしかったんだ」とか「こうしてあげればよかったんだ」というように、もう少し相手の立場に立ったり、気持ちに寄り添ってあげれたのではないかと、後になって気づかされることがあります。
いま、被災された方、避難されている方へ、復興に向けてさまざまな対応に追われている方に対して、創造力を働かせて自らを結び付けて考えることはもちろんのこと、無力感を抱えた自分…を見つめなおしている方に対しても、それゆえの後ろめたさや苛立ちなどとも付き合っていきたいと思っています。そうした方たちの力も必要なのです。
そして、政府や各専門家たちの対応の遅れや過ちに、単に不満は批判をぶつけるだけでなく、自分でも何かを生み出していく、言説でも行動でも、研究でも創作でも、そうしたことが大切なように思います。想像力と創造力ということでしょうか 4月13日 3:15
青木 正美 H先生のお言葉が、心にしみ入ります。被災地の方々の無力感はわたしなどの机の上での無力感とは、全然違うものです。想像力を遥かに越えてしまっていても、寄り添う事が少しでもできるならば、と思わずにはいられません。想像力と創造力、ですね。 4月13日 3:24
NM  拝読させて頂きました。人間・青木正美さんの肉声を感じました。自分で考える力を自ら放棄するような姿勢では未来は育まれないんですね。4月13日 4:25
H  桜が咲かない春なんて想像したくないけど、起こり得るんだということですね!4月13日 4:50
青木 正美 NMさん、ありがとうございます。これまでも、2007年の夏以来、ずっと危険性を言い続けたきた私が居ました。でも、今回、みなさまに受け入れられるか否か恐かったのですが、書かせて頂きました。4月13日 4:56
青木 正美 H先生、具体的に何をすればいいのかですが、首都圏と名古屋圏の人口で割れば、燃料棒をドライキャスクに移してゆく作業に掛かる予算なども、被害額とその結果から判断すれば、微々たるもののように思います。これからも桜が毎年見られるように、後世に残したく思います。4月13日 5:00
H  想像力は子や孫、そしてもっと遠い未来の世代にまで働かせなければならないと思います。私たちは今何を負うべきかを考えると、ドライキャスクはせいぜい 100年(?確か)ですが、最終処理方法の確立までの時間稼ぎにはなるでしょう。4号リスクへの対応は、がれきの受け入れ以上に国民全体の問題であり、それ相応の負担も覚悟が必要でしょうね。私は門外漢ですが、そう思います。4月13日 5:14
青木 正美 H先生、私ももちろん専門外ですが、先生や私のような門外漢が想像力で知恵を出し合うことこそ、今、求められているのではないかと思います。もし、地震学者が原発問題に踏み込んだ発言をしていたら、現状は違ったものになっていたはずです。その意味で、「その事態」を想像できる門外漢が、ここで何かを創造しなくてはと思う次第です。4月13日 5:18
H まったく同感です。4月13日 5:22

YA  朝一番で読ませていただきました。福島県人である私は迂闊にコメントできない内容だと考えさせられました。何故なら、県外の方々は原発被害、放射納被害の中で生活していくことは想像にすぎませんが、我々福島県人は実体験、それも現在進行形です。想像しながら問題向かうのと経験者が問題に向かうのでは後者の方がより確実で正確に対応できるのは間違いありません。ならば、経験者である福島県人が真っ先に立ち上がらなければならないのではないのでしょうか?
なのに青木先生方は困難な想像で問題に取り組もうとされている。
福島の名だたる学者たちは、県となにかしらのしがらみがあり講演などでは大概放射能に対して甘い見解です。大半の県人は甘い方の考えに流れます。今の生活を変えたくないから・・・
勿論、自分なりに情報収集し、危機を訴えている方もたくさんいらっしゃいますが、青木先生をはじめたくさんの方々が『想像力』だけでこの問題に立ち向かおうとしておられるのに、何とも情けない気持ちでいっぱいなのと同時に感謝の気持ちでいっぱいです。
福島県人しっかりしようよ!! 4月13日 6:25
青木 正美 YAさん、涙が出ます。こんな大きな事故の中に居たら、声も上げられないですよ。わたしの創造力など、余りにも小さくて、だから益々無力感にとらわれます。もしも放射能が見えたら、こんな事にはなりません。見えないから、流される。福島の方々をこれ以上、苦しめてはならないと思いながら……。でも、こうしてFBでやり取りしているということは、きっと何らかの力になるのだと思っています。 有美さん、ほんとうにいつもいつも、わたしが励まされちゃって、ありがとうございます。4月13日 6:34
YA とんでもないです!!青木先生! 青木先生のような方がいらしゃると思うだけで励みになり頑張る力になってます!本当です(*^_^*) 4月13日 6:38

I  私もシェアをしたいと思います。4月13日 6:48
S この綺麗な福島の浜から広範囲が草におおわれ人々も入れなく 荒れていく姿は見るに耐えられません。。それでも生きなくちゃならないと みんな頑張ってます。。言葉でなんて言い表せない思いです 原発さえなければ子供達も県外に行くこともなく楽しく平凡な生活を過ごせる筈だったと。。そんな方々が沢山いらっしゃいます 青木さん ありがとうございます 感動しました 4月13日 7:01
青木 正美 Sさん、心のこもったコメントありがとうございます。わたしは大学が栃木で約10年間、宇都宮に居ました。福島へは仕事でも遊びでもしっちゅう行っていました。父の診療所にも、わたしのクリニックにも福島のスタッフがおります。大好きな福島を返して欲しいと、わたしですら思います。また福島の色々な立場の方々が、心を引き裂かれて行くのを、ただただ見ているしか無い自分が恥ずかしく思います。4月13日 7:20

KY 福島は父のふるさとであり親戚も夫の兄弟も住んでいます。そして大田原も決して放射線量の低いところではありません。でも、なにもできないでいる・・・そんな無力感と付き合って1年以上がたっています。ただただ原子力発電所をやめてもらいたいそう願います。捨てる場所のないゴミを作り続けてこの綺麗な国を失いたくない!!4月13日 8:17
青木 正美 Kさん、コメント有り難うございます。みんなこの無力感を抱きしめながら、13ヶ月を歩んできたのですね。何とかしなければ、と思いつつ。4月13日 8:23

I 無力感について自分もノートを書こうと思いましたが、それほどのものでもないのでコメントさせてください。
リビアの元国家元首への反乱が3.11と平行した世界のニュースでした。
心理的な無力感のことをひとまず棚上げにして、1人1人にはたいした力がないことを私なりに説明するならば、我々日本国民の「無力」は、かの国家元首の絶対権限と裏腹に、三権が分立され、代表民主制をとる憲法によって、1人に権力が集中しないようにデザインされた結果でもあります。
小さな責任ですが、私には家族を守り、依頼…者の利益を擁護していく生活があります。
それは小さな責任でありながら、実際上は小さな人間にとって大きな活動を起こすのと引き替えにするには重い責任でもあります。
その中で私は私にできることだけをしようと矮小なことを考えそうになりつつも、それだけではない方法があるのだろうと考えることだけはさしあたり止めずに踏ん張り続けたいと思っています。

青木先生の本当の知性は想像力であるとのご指摘にはいろいろな意見があり得ると思いますが、私も基本的には賛同します。事実を直視して重視することが求められる法律家ではありますが、事実の解釈・咀嚼、そして再構成には想像力が不可欠です。私は、少しずつでも本当の知性を求め続け、そして、将来もこの国に住み続けることになるであろう我が娘にも彼女が本当の知性を身につけてくれることを期待してやみません。
全くまとまりがなくて済みません。4月13日 10:17
青木 正美  I先生、三権分立、ものすごくよく分かります。
すみません、わたしの感じている「無力感」と日本国籍をもつ者としての「無力」とは、まったく違うものなのです、というこよを前置きさせて頂いた上で…… 私たちが、無力であることには意味があるのだという事は、この国が選んだ「民主主義」に因るものであるのですよね。なるほど、日本国憲法というものの、根幹の一つなのですね。ものすごくよく分ります。勉強になります。
この事実は、陽に陰に感じております。殊に、今回のように国論を分けるような重大な決定…を目前で、あの代表者たちがどんどんと突き進んで行くのを見ていると、居ても立っても居られなくなります。それは過去の失敗があるゆえの制度なのでしょうが、本当に、無力感を感じますね。
ところで私の仕事は、痛みの外来をやっていますが、痛みというのは客観的に測ることができません。他者とも共有できません。
人は他の人の痛みを自分の痛みとすることは、本当に難しものです。石橋先生のお仕事も、まさに他者の痛みを可視化してそれを法的手続きに則って処置をするということだと思います。見えないからこそ痛みというのは、他者から理解されず共感もされず本当に辛いものです。
痛みは始めはもしかしたら物理的なものだけだったのかもしれませんが、孤独のうちにどんどん心まで蝕まれてゆくことも多々あります。物理的な痛みは、その時の心のありようで痛みの程度が変わってくるものです。
つまり社会的にもプライペートも充実していれば、多少の痛みにも打ち勝つことができますが、全てが裏目に出ている時には、ほんの些細な痛みでも立ち上がることができない……それは人の心と身体が切っても切り離せないからではないかと思うのです。
前置きが長くなりましたが、わたしが偉そうに知性とは想像力であると申し上げたのは、誰でもどんな人でも、自分の体験以上の事は想像できない訳でして、であるならば全ての人は自分の体験の中でしか生きられないことになります。しかし、他者との関係の中で生きてゆく人間には、自己の体験を越えて他者を慮ることをして初めて、社会を作る事ができるのではないか……それが生きる上で本当に必要な知性なのではないだろうか、と思っている次第です。
何だか長々とすみません。4月13日 11:30

YA 子供の頃、母に『相手の立場になって考えなさい』とおそわりましたん♬4月13日 11:37
青木 正美 YAさん、そうなんですよね!すご〜くシンプルに、それさえできればエゴも差別もなくなるのだと思います。4月13日 11:38

ST  シェアしました。みなさまのコメントを拝見して涙が出そうです。4月13日 11:46
青木 正美 ありがとう、Sちゃん。涙でます。ほんとうに。4月13日 11:48
ST ふんばっていきましょう。4月13日 11:49

I いえいえ、長くないです。たまにはこういうのもいいですね^^;
僕もおそらく先生の感じるのに似た無力感を覚える一人なのでご指摘は理解しているつもりです。制度的な無力はせめて法思想的に整理をしたまでのことで、僕自身、そのような整理めいたもので心が収まるものではないです…。その正体は長い時間をかけて考えたいと思います。
先生のさきのコメントについて、人は自分の体験によって人生を生きますが、それのみにとどまるのではないと私も考えており、賛成します。他人の痛みがわかるか、といのは有名な…哲学の問いではあります。しかし、そこまで学理に照らさなくても、たとえば、僕は小説でも特にSFとかファンタジーには思考の枠を超える空想のチカラを与えることができ、関心、好奇心、探求心も、結局は自分の知らない何かへの想像力、わくわく感があってこそのものと思うのです。しけた現実的なことは大切。生活だし。でもそれだけじゃないよね、と思って、父の背中をみせているつもり、でする~(^_^;)4月13日 11:52

青木 正美 そうそう、そうなんですよね。あらゆる方面の想像力を養うというのは、ワクワクするところから入った方がずっと膨らみますよね。ファンタジーの世界で、でもちょっと底には「ダークサイド」がある。けれども最後は正義は勝つ、と。しけた現実的な世界と想像の世界の両方があって、そこで自由に行き来が出来るような、そこまでしっかりとした情緒というか情動を自分の子どもに宿すことができたら、もう他に何も要らないかもしれませんね。あとは、家事。(本件とはあまり関係ないですが)だからね、石ちゃんの子育てはすごいバランスがいいと、わたしはいつもそう思っているのです(^_^)4月13日 12:07

YE  青木先生、出先からです。もっとじっくり読んでからコメントを、と思いましたが、今ひとことだけ。先生は無力感に苦しまれていますが、無力ではないのです。脳天気なコメントで申し訳ありません。でも先生の文を読んでいるとそう感じるのです。4月13日 12:12
青木 正美 Y 先生、ありがとうございます。そうなんでしょうか、そうであればいいな、と、このどうしようもない無力感を抱きしめながら、逡巡しつつノートを書いている青木です。4月13日 12:26

I いや、家事は大事(笑)生きるのに必要なチカラです(*^^*)
分業社会にあってなお、自分の身の回りのことをして、お百姓さんのありがたみを切実に感じることのできる子供でもあって欲しいと思います。それか家事をする旦那を見つけて、旦那のありがたみを感じるか。どっちか(笑)4月13日 16:17
青木 正美 本当にそうです。あらゆる意味で、お料理ができるということは大切です。(自分が不得手だから実にそう思うのです)経済的にも精神的にも自立するというのは大事だとみんな思っていても、日本ではやはり男性の家事的自立率が低いですよね。家事が出来るというのは、毎日を丁寧に暮らすということに繋がると思うのです。旦那のありがたみの方は、世の中「ハズレ」もけっこうあるからなぁ(笑)4月13日 16:54

ST  横から失礼します。毎日を丁寧に暮らして 贅沢なものでなくとも美味しいものを美味しいと感じることが幸せにつながると思うのです。そして窓を開けて深呼吸して空気が美味しいな今日はどんな天気になるだろうかと思うのだって幸せにつながると思うのです。そういう幸せを奪う権利なんか誰にもないはずだ。4月 13日 16:58
ST  人生辛いことは掃いて捨てるほどあるし全部を自分の力でコントロールできるわけではありません、だからこそ身のまわりの小さな幸せを大切にと思って みなさん暮らしているのではないでしょうか。あたりまえの幸せがいかに脆くはかないものであるかを皆がまのあたりにしてしまった3.11以降は、そういう気持ちをかみしめることが今までよりも多くなりました。なんとかできることであるならば、なんとかしたいですね・・・無力であっても、なんとかできるものを見つけて なんとかしたいですね。4月13日 17:02
青木 正美  Sちゃん、生きてゆくというのは本当に大変なことだとつくづく思います。54年間生きてきて、スイスイと来られた時の方がずっと少ない気がしています。自分自身の生老病死の上に、その時の社会情勢が絡まって、そこに自然災害まで起こる。生老病死だけでも大変だというのに。
でもね、311は悪い事ばかりではなかったと思いたいです。インターネットを通じてだけれども、こういう話しをみんなで出来るように、ほんの少しだけれどもなったからです。命ってなんだろう、生きるってなんだろう。こんな話は、311…の前は哲学の授業じゃあるまいし、みんなそれほど考えなかったような気がします。
えっと、人間は幸せになるために生きている、いえ私は幸せになるために生きていきたいと思っています。でも、自分の幸せが他の誰かの幸せにも重なったらどんなにいいだろう。できるだけ多くの人の幸せを叶えるような、そんな幸せの形があるのだはないだろうか。自分だけが幸せならばそれでいい、それは違うのではないか、と。最近とみに思う事です。4月13日 17:24
I      STさん、美味しいものと窓を開けて空気を吸う話、とてもいいですね。青木先生、ほんとほんと、ある意味311のおかげでこんな話をしちゃって、なんだか若返る!こういうやりとりって。昔の学生みたいじゃない!?4月13日 17:30
青木 正美 Iちゃん、ほんとうにそうなの。STさんとはほぼ50年来の友人なんだけど、311があったからこういう話をやってるわけです。4月13日 17:32
ST 無力感を抱きしめる話から ちょっとパワーをもらうというわけですね。^^4月13日 17:34
I 素晴らしいなぁ!でもって新しい友人の僕にも力と若さ(当社比)を下さるんだから、やっぱりぜんぜーん無力じゃない!!4月13日 17:38
青木 正美 そうそう。無力感からの出発だと、伸びしろが長いっすよ。>Iちゃん、当社比の若さとパワーが伸びるだすよ!
4月13日 17:39
青木 正美 そっか、けっして無力じゃないかもしれない、無力感……。4月13日 17:43
I  伸びしろはありますね、確かに。
ねえ、先生、こうやってやりとりしてみると、やはり無力感を抱いて生きることもポジティブにこなせるな、と思えてきました。なんとゆーかなぁ、理由もなく万能感を持ってるのに比べたら確実にまともだし、周りの人と意見を交わすことは、無力感にとって、なんといったらいいのでしょうか、組み合わせがいいというか相乗効果が高いというか。4月13日 17:49
青木 正美 すごく弱っちいことは、すごくマッチなことより、ずっと共感できるし、311の後はやはりもっと弱っちい自分、弱っちいみんなを許容するべきだたのではないか、と、私もそう思っています。「絆を繋いで、早く立ち直ろう」って、あまり脅迫観念を持たないことも、大切なことだったのではないかと思うのです。4 月13日 18:00

ST  ひとつだけ 付け加えたいのですが・・・上で「窓を開けて」という話は先日目にした 吉田麻里香さんという方の書いた「2012年1月12日 わたしがふくしまに暮らすということ」という文章のことを念頭においていたのです。自分のウオールにリンクを置いておいたのでよろしければご覧ください。・・・先日 福島南相馬の出身の洪さんとお話ししたときにも、「いままであたりまえだったことが あたりまえにできなくなって、生活がぜんぶ完全にかわってしまった」ということを話しておられたのですよね。その話を聞いて「たいへんですね...」と共感するしかできない自分にどうしようもない無力感を感じる。だいいち外国に住んでいるのだから被災地へお手伝いにも行けないのだから無力感でいっぱいなんだ。無力感でいっぱいだけど 何かできないだろうかと毎日思って暮らしています。4月13日 19:03
青木 正美  Sちゃん、やっぱり!そうだろうと感じていました。吉田麻里香さんのこの詩は、ものすごい数の言語に翻訳されて昨日かな、NYで曲がついて歌にもなっているはずです。本当に全てが等身大の、福島で暮らすということ、なんですよね。4月13日 19:09

Shi.   何度も大きく頷いてます。シェアさせてください。土曜日 7:20
青木 正美 Shi先生、シェア頂き有り難うございます。日曜日 7:39
HN  シェアさせてください。日曜日 12:24


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